想像

 赤ん坊があまりにも激しく泣きわめいている車中、足を広げて眠る茶髪のサラリーマン、手で口を隠して歯磨きをはじめるおばさん、日章旗のペイントがしてある日本軍のヘルメットをかぶった変な人、窓ガラスに映る疲れた顔の何者か、等を認識した時、頭の中の耳に近いところでぶつんと何かが音を立てて弾けた。弾力を失った古いゴムが、半分粉みたいになったゴムが切れた音だった。
 電車と電車をつなぐ連結部のドアがどぅるると音を立てて開き、ヌンチャクを振り回しながらブルース・リーが乗客に死亡遊戯する。ほぁた、ほぁた、ほぁた。茶髪のサラリーマンはヌンチャクで殴打され失神し、歯磨きをしていたおばさんはジークンドーパンチで歯をへし折られ、日本軍の亡霊はキックを受けて窓ガラスを粉々にしながら車外に吹っ飛んでいき、泣きわめいていた赤ん坊はジークンドーなでなでによって今は微笑みながらあばあば言っている。ブルース・リーは親指で鼻をこすって誇らしげだ。
 乗り継ぎの駅で電車のドアがどぅるると開き、降りようとしたところにホームの客が詰め寄せ、上手く降りることができないでいたのだけれど、A3の階段の方から勢いよくジョン・マクレーンが降りてきて、よごれたズボンの腰から拳銃を取り出して天井に向かってばんばんと2発撃つと、驚いた客はみんな丸くなって頭を隠したのでそのすきに僕はホームに出ることができる。マクレーンはホームの奥のエスカレーターを駆け上がっていく人物に向かって拳銃を構えるんだけれど客が邪魔で上手く照準を合わせることができず感情が昂ぶって「ホリーー!!」と絶叫しながら犯人らしき人物を追って駆けて行く、その背中を僕が追う。エスカレーターを登りきった時、背後で派手な爆発が起きて、地下鉄のトンネルは真っ赤な炎に包まれる。もちろん地上のマンホールは火柱を伴って吹き飛び、落ちてきた蓋が黄色いタクシーのボンネットをぺちゃんこにする。
 地下鉄から階段を上って地上に出ると、靖国通りの東の方からものすごい筋肉のスパルタ兵300人が雄叫びを上げながら銀色のデロリアンを追いかけて行ったのだけれど突然稲光がきらめいてアスファルトに炎の轍を残してデロリアンは消えてしまったので、スパルタ兵達は勝どきを上げて喜んだのを横目に三省堂に入った僕は、本棚に並んだ新しい本を見ただけで心が軽くなっていた。
 故郷に住んでいた頃、母が父が乗用車にぼくを乗せ、自宅から1時間の場所にある「帆船の本屋」に、しばしば連れて行ってくれた。その店が「帆船の本屋」と呼ばれていたのは、本屋さんの上に船のマストらしきものが2、3本ひょこひょこ立っていたからで、そのマストは夜になると意味もなくぴかぴか光るという、一等いかした本屋で、それは子供からすれば、ぼくからすれば、どう考えても安息の地だった。エルドラドであった。桃源郷であった。カナンだ。マンガが埋もれるほど置いてあり、小説が隙間なくぎっちり棚に詰まっており、大きな型のゲームの攻略本は、派手で、雑誌のところにはお兄さんやお姉さんが、田舎といえど立ち読みをしていて、それはとても大人に見えた。小説を吟味し、面白そうな本をお母さんに手渡す時、許されるかどうか、買ってもらうにあたいするのかどうか、裁かれる瞬間の気まずい沈黙を胃の重さを、今は懐かしく思い出し、今となっては誰の許可もいらない。
「その本、お母さん昔読んだことあるよ」、本さえ与えておけばおとなしくしている子供だったからという理由で、本を与えてくれたことが、物語を与えてくれたことが、今のぼくを支えてくれもする。