ロイヤルミルクティー

 パソコンモニタを睨み怒涛の勢いで年末年始の業務をこなしているうちに、心の一部が腐食したのがはっきりと分かる。眼球が固くなる。視界が狭くなる。脳の奥から何の音楽も聞こえない。深い井戸の底で孤寒としているようだ。周囲から人の気配が消えて義務と責任とが自分の中で敵を大きくする。大した仕事もしていないくせにモンスターの大群に包囲されているように感じたら、ロイヤルミルクティーだった。

 喫茶店が苦手なのはあまりに人が多すぎるからなのだけれども、そもそも田舎育ちの心には喫茶店で喫茶するという発想も乏しい事が手伝い、茶店内にてお腹が減って落ち着かない鳩のような精神状態になってしまうことが、人間としての経験が浅いような気もしてなるべく喫茶店に慣れたい、仕事の打ち合わせで喫茶店に呼ばれることもあり、その場でぶるぶる震えてほろほろ鳴いたりしたら、この人は鳩なんじゃないかと疑われてしまう恐れがあり、僕は確かに平和を愛する人間ではあるけれど、平和の象徴ではないのだから、常にセルフイメージの本質である石仏でいたいのです、と思い一時期頑張って喫茶店に通うようにしていた事が功を奏して、苦手なのは変わりないけれど、毛嫌いするほどではないよという状態にまで進化したところで、喫茶店が習慣になることは無かったから、習慣でないことをするためには、強い動機が必要なのは周知の事実ではあるが、動機はロイヤルミルクティーだった。

 ロイヤル・ミルクティー。たいへん高貴な雰囲気なティーではございますが、インター・ネットで調べてみるとどうも本場のグレートブリテン及び北アイルランド連合王国の皇室発祥のティーではないようで、ロイヤル感あるからなあという雰囲気で日本の人が勝手にロイヤルミルクティーと呼んでいるようではあるのだけれど、歴史のことはこの際投擲しておき、通常のミルクティーティーとミルクを合わせることで完成するのに対し、ロイヤルミルクティーはミルクで茶葉を煮出すという違いがあるらしいことは、これはミルクティー界隈ではおそらく常識なのだろうとは思われるが、エメラルドマウンテンマウントレーニアの違いも分からない僕には猫に小判の情報で、つまり情報がここでは話題の核心ではなく、ただ純にロイヤルミルクティーのお味を好いているということ、伝えたい。拙はあれを好いとうよ。

 拙はロイヤルミルクティーを純に好いていた。あのやわらかなあまさを、ゆめみるようなかおりを、こころのおちつく色味を好きだ。コーヒーのストロングな苦さと大地のような香りで神経を武装したい時もございますが、やはりロイヤルの旨味をこそ喫茶の真髄と固く信ずるところである、と第一次ロイヤルミルクティー宣言をしたいと思ってこの文章を書きはじめたのではあったが、そういえば僕はロイヤルミルクティーにはまる前には、ミルクセーキばかり飲んでいたことを不意に思い出した。ミルクセーキという飲み物のことをご存知でございましょうか。僕もよく分からないのだけれど、喫茶店に行くと案外どこでも置いてあるもので、基本的には生クリームと牛乳を合わせたような味か、バニラと牛乳を合わせたような味かで趣向が別れるように思われるのだがどうだろうか。喫茶店のマスターさんは、たぶんコーヒーが好きだからマスターになるというパターンが多い印象があるのだけれど、どこかにミルクセーキが好きすぎて喫茶店をはじめました、コーヒーはおまけですみたいな奇特な方がいないものだろうか。もしいたらコーヒーを常飲しない僕としては、嬉しいなあと不意に思ったのであった。おそらく僕はミルク関連コンテンツなら何でも好きになれるだけなんじゃないかとも思って、もしそうなら、本来僕が飲むべきはロイヤルでもセーキでもなく、きっと純に牛乳だから、喫茶店ではなく北海道に向かうべきなのだろう。そしてどれほどミルクが好きなのかを試されるであろう。

 仕事帰りにミスタードーナツに寄る。
 オールドファッションとポンデリングをトレイに乗せて、レジでオーダーしたのはロイヤルミルクティー。空いている椅子に座ってスマートフォンで本を読む。 読み始めたのはサン・テグジュペリの『人間の大地』で、この本はロイヤルミルクティーにぴったりだったから、その時には、やっと心の目が開く。
 窓際の席では女性の二人組が楽しそうにお話をしていた。隣に座ったおばあさんはすごくゆっくりとカップを口に運ぶ。その隣の茶髪の男の子はだらしなく椅子に座ってスマホのゲームをしている。誰もが少しだけ肩の力を抜いている。
 自動ドアが開いて冬の空気がわずかに舞い込んだ。
 つめたい風は、やわらかい紅茶のにおいがした。