サンタクロース現象

 サンタクロースは人の名前ではなく現象の名前だった。
 友人のSくんにサンタをやってほしいと頼まれ、少し考えてやることに決める。
 Sくんのお子さんとは面識があり、何度か遊んだことがあったので、去年のクリスマスではすぐに正体がバレてしまった。つけひげをしてサングラスをして(その時点で不審者だけども)変装しても結局は声で分かってしまうため、今年は喋らないサンタにしようとSくんは言う。喋らなくていいのなら楽でいいわいと思った。その考えは本当に甘かったと、後から気づくことになる。

 Sくんはサンタの衣装とお子さんに渡すプレゼントを準備して僕の家に運んだ。
 僕は事前に衣装をフィッティングし素早く着替えられるように練習した。鏡に映るサンタ服の自分はどう見ても変な人で、逆に目が離せなくなった。じっと自分の姿を見ていると徐々に慣れてきて、パジャマでも着ているようなリラックスした気分になった。サンタはのんびりしていた方がきっといいと思った。

 当日、Sくんが家まで迎えに来てくれた。プレゼントの袋とサンタの衣装が入った袋をひっつかんで家を出る。階段を駆け下りるとマンションのロビーにS君が立っている。お子さんにはサンタを呼んでくると言って出てきたらしい。僕は今日あくまでサンタだ。
 Sくんと二人で冬の町を歩きながら最後の打ち合わせをした。声は出さないこと。サンタの言葉が必要な時はSくんが翻訳して伝えてくれる。長居は無用。プレゼントを渡したら即座に離脱すること。それから本当にありがとうということ。

 Sくんが住むマンションの共用廊下で着替えることにする。そうなることを見越して着替える練習は済ませてある。スウェットのズボンの上に赤いズボンを履いた。上着を脱いでTシャツの上に赤いガウンを来て黒いベルトをお腹の上に締める。つけひげを装着してサングラスをする。赤い帽子を被る。それだけでサンタになれる。マンションの住人に変身を目撃されることもなく、Sくんの家の前までたどり着く。
 Sくんは楽しそうに笑いながら家のドアを開けて中に入る。
 30秒経ったらチャイムを鳴らしてサンタが突入する段取りだ。
 サンタはドアの前に立ち尽くして出番を待った。

 Sくんの家のドアの前で、みじろぎもせず立ち尽くしている時、これがサンタなんだなあと思った。
 マンションの共用廊下には、様々な家庭の音が聞こえてくる。壁を隔ててわずかに薄くなった生活の音が、食器の触れ合う硬い音が、ビニール袋のかさかさが、何を話しているのか判然としない人の声が、テレビの笑い声が、辺りを取り囲むように満ちている。
 その生活の場からほど近い異次元にサンタはいる。
 サンタはドア一枚向こうで、プレゼントを手に立ち尽くしている。
 これがサンタの気持ちなんだ、と僕は思った。
 人に見られたら恥ずかしいなとか、なんとなく疎外感を感じるなとか、それでもちょっと楽しみだなとか、緊張するなとか、30秒の間になんだかたくさんのことを考えた気がした。

 チャイムを押すと、Sくんがドアを開けてくれた。
 お子さんが満面の笑みで走ってきて何か叫んだ。
 Sくんの進行ままにプレゼントを渡すと、お子さんはありがとうと元気に言った。それからみかんを3つくれた。
 台本に無い状況だった。プレゼントを渡す準備はしてきたけれど、貰う準備をひとつもしていない。
 物を貰う想定ができていないからみかんを受け取りながら「ありがとう」と言いそうになる。
 ありがとうと言いたい。でも今年のサンタは寡黙なのだった。今までしゃべらなかったのに、ここでしゃべりはじめると訳のわからないことになる。
 感謝の気持ちを言葉を使わずに表現するにはどうすればいいんだろう? 分からなかったのでもらったみかんをガウンの懐にゆっくりしまった。ひとつずつガウンの懐にみかんをしまうサンタの姿を、お子さんは凝視していた。
 Sくんと一緒に家を出て、廊下で再び着替えた。
 どうなったか後で教えてねと僕は言った。絶対にバレてないよとSくんは笑っていた。
 わずか30秒のサンタだった。
 でも僕にはとても長く感じた。

 サンタとはなんだろうと考える。
 僕は今日サンタだった。サンタクロースだった。僕がサンタクロースになった、ということだ。
 サンタクロースは人の名前ではなく現象の名前だった。
 赤い服を着てひげをつけた僕は、僕ではない。そこに僕はいない。だから僕はお子さんに見返りを求めたりしない。ただ喜んでいる姿が見たいだけの変な人だ。サンタという現象は、そういうものだった。善意の象徴になることだ。象徴としてしか機能しないことだ。欲しい物をあげたいだけ、喜ぶ顔が見たいだけ、そういうすてきな現象。

 サンタにはどんな人間関係もない。社会も文化もない。奇跡でも物語でもない。
 ものすごくシンプルで強い動機の、ありふれた現象なんだ。

 

 

今週のお題「クリスマス」