冬が新しいのは

 冬が新しいのは、古い一年が終わるからかもしれない、と気がついた。
 春が新しいのは、新しい顔が緊張して目の前に立っているからか。
 秋が新しいのは、風の色が劇的に変化するから。
 夏はいつも同じ夏。

 昨日、今日と同級生たちと忘年会をした。名ばかりの飲み会ではあるのだが。
 昨日の友達はとても古い友達。出会い、別れ、そして偶然に再会した友達。顔を合わせればいつも馬鹿なことばかり話してくれる、何一つ真面目ではない話をしてくれる数少ない友達。大きな年齢に育った僕たちは銀座でご飯を食べることができる。上等なロースを鉄板で焼きながら、プレイステーション2のゲームの話をした。映画の話を、それからちょっと暗い話ももちろん、すこしはする。はしご酒をして寒風吹きすさぶ東京の町を、同郷の友達と歩くのは再発見の連続で、まるで高校生に戻った僕が、幼いままの目でネオンや人だかりを、赤ちょうちんを見ているような気持ちになる。それぞれにやることがあるということは、たとえ忙しさにまみれることだとしても、よいことだと思う。また顔を合わせることはいくらでも可能だから、今度は3万円のシャトーブリアンを食べながら知恵の輪とかを解いていたい。

 今日の友達は比較的新しい友達。出会い、別れ、そしてまた出会う友達。彼らから学んだことは数多くある。狂気的であることや普通であること、その境界、情熱、落とし穴を避ける方法、堕落と堕落からの這い上がり方、そして何より僕のような生まれつきのビジターをある程度受け入れてくれる人がいるのだということを。彼らには強い推進力がある。前に前にと進んでいく。だから彼らの言葉はどんな偉い人の名言なんかより衝撃的で血が通っていた。僕が書いたあほみたいな小説を目の前で読んでわはわは笑って読んでくれる。彼らはパイオニア的な発想がある。だからいつも「次」を考える姿勢を、僕は本当に好きだ。来年の抱負は芥川賞を獲ることです、と告げると、拍手をして喜んでくれた。僕は嬉しくなった。それだけで芥川賞を獲ったような気分になった。だからさよならの時にもっと嬉しくなりたかったから「芥川賞ふたつ獲るよ」と言った。二倍うれしくなりたかった。また顔を合わせることなんていくらでも可能なんだ、たとえ地球の裏側にいたってそれはとても簡単なことだと僕は思う。そういう友達。

 令和元年が爆発四散するまであと少し。
 仕事もプライベートも忙しく慌ただしく混乱してくるこの辺のお祭りみたいな時間が少し楽しくなってきた。AからBへ。BからCへ。体も心も移動をする。渡したり受け取ったり、プレゼントも移動をする。季節も時間も移動して転がっている。時間の流れが一度も逆行しないことはありがたいことだったなと思う。だから今日は忘年会が楽しかった。昨日があるから今日が来たのであって、10年前からいきなり今日になったわけじゃないんだものな。10年後もいいじゃんとかよかったとかありがとうとか、そういうことが言いたい。