歩き回る、本を読む

 休日の空が晴れている。雲が多く、太陽が隠されていたため日差し自体はそれほど強くはない。乱反射した日光が空の高いところでばらばらに砕けて、だから全体的に銀色をした晴れの日に、何も予定がないということがこの上なく自由で、もう紅茶が香っていてもまったくおかしくはないのに、結局は冷蔵庫を開けてスポーツ飲料を偽切子細工の湯呑に注いで喉越しだけが異様にクリアだった。

 アウトドア読書をオススメするのにはわけがあって、それはつまり読書をするということに意識的になることが出来るという効果があるからで、読書をする人はおそらく、読書自身の特殊性や喜びなどを時々忘れてしまうものではないかと、これは僕の体験に基づいた確度の低い予測なのだけれども、決まった場所や時間で読むと本に集中することは出来て、それは間違いがないし読書の本懐であろうとも思うが、変化がないということは刺激が少なくなることもでもあり、刺激が少ないということは脳が現象に飽きやすくなることでもあり、だからだんだん嫌になってくるのは動物の名残かもしれないので早く進化すればいいなあと思うけれど、実際はまだ進化前なので、場所を変えて状況を変えて行動を変えて読書をすることにより、そのような工夫を加えることにより、より読書を楽しもう楽しめるはずだ楽しい、という命題をたずさえて、オススメしておりますアウトドア読書ではございますが、場所によっては、やはり内容がまったく頭に入ってこない、どころか邪魔にされてしまうこともあると思うのだけれど、それも含めて、不自由も含めて色々な場所で読書がしたい。だってそれは絶対に楽しいから。

 駅のホームで、小田原の海辺で、秋葉原歩行者天国で、旅先の旅館で、電車で、バスで、公園で、会社で、知らない大学のベンチで、風呂で、川べりで、青木ヶ原樹海で、高尾山の頂上で、と様々な場所で僕は本を読み、本を読むためにあちこちに出かけるなどもして、やっぱりどこで読んでも内容が変わるわけではないのに、本の内容ではなく自分の状態が変わることによって読書の意味が変質することに気がついたのだけれど、本を読むという行動を陰の印象に縛っておくことは無く、もっと陽の方に、開いていく方に向けても良いんじゃないかと思う。読書には知的なイメージがあるけれど、知的なイメージだからといって知的に読む必要はない。僕は思索的な人間ではあるけれど知的な人間ではないからそのように思い、受動的だった読書を能動的に変えてみる、落ち着きから活動的に変えてみることで、まるで自らが本を活性化させるような、文章のリアルな側面をより感じられるようになる、読書は額縁から飛び出す、本のみに向けられていた意識が、本と人の総体にフォーカスする、「僕」と「本」とで「読書」なんだ、蒙が啓いた! ということになること請け合いである。

 というところから、部屋の外で本を読むアウトドア読書を進化させて、最近は歩きながらスマホ電子書籍を読んでいるんだけれど、いつもの川の土手の広い散歩道、全3時間の行程のうち、2時間は歩きながら本を読んでいる。川の土手には障害物もないし人がすれ違うときも別に危険ではない。せいぜい犬の落とし物を踏んで土手から転げ落ちるくらいのリスクなので、そういう安全そうな道をみつけて新しい空気を使う、空の色もわかる、川の色も、それから犬ともすれ違う、二宮金次郎スタイルで、読書する歩く人をやっていると、異様なほど集中できて、何故かと考えると、歩くことによって血行が良くなっているからなんだよなあ。本を読んで映画を見てゲームをして休日を終わらせると、体にも精神にも良くない影響があると僕は考えていて、実際休みの日に引きこもるとメンタルがどんどん淀むから、大好きな読書の時間を屋外で過ごすことは、きっといいことだと思う。