現実

 僕が考えたことなどは、現実の前では本当に意味のないことだ。

 仕事を辞めた元後輩のM君から連絡があった。今度一緒に飯でも行きましょう。退職した方から連絡が来ることは、僕の人生の中では珍しい。大概の人とは二度と顔を合わせない。ある一時期を共有して、過ぎ去ってしまえば元からいなかったのと同じように記憶から消えてしまう。僕だけの記憶から消えるのではない。みんなの中からも消えていく。影は薄くなっていく。

 はじめは、それは虚しいことのように思われた。転校した友達から送られてくる手紙の頻度が減っていくことが、そしてこちらからの返信にもなんと書けばいいのか分からなっていくことが、自分の中でも相手の中でも存在が薄れていくのが分かってしまうことが、何も共有できなくなっていくことが、それが消えるということだった。そのことを空しく思える程度には正常だった。誰にも消えてほしくはない。けれど僕ごときのわがままで他者の人生が変えられるはずもない。僕の中でも、また他者の中でも存在が消えていくことに対して怒りを覚えた。悲しかった。そして、それにも慣れた。

 人が消えるということはおそらく悲しいことだった。でもそれは案外普通のことなのだと大人になってから気がついた。あらゆる人が消えていった。出会った分だけさよならをした。親しく話していても自然と人間は姿を消していった。僕はいなかったことになり、僕の中の彼らもまたいなかったことになった。残っているのは淡い思い出と人物のパターンだけだった。あまりにもたくさんの人が消えた時、ひとりひとりの人格を悲しがっていることはできない。もしそれを本気で実行したら人間の頭は簡単におかしくなる。たったひとりの人間の死ですら、ひとの心をくるわせることがある。消えるということは死と同義だった。唯一の違いは、今度飯でも行きましょう、と言って別れられるかどうか、という点のみ。それが果たされなくても観測されない未来として目の前から去った人間には可能性が残されている、というだけのこと。もし未確定のまま放置しておけば可能性は結局は死と同じように0になる。ということが普通になっていた。あるいは気にしなくなっていた。虚しさを覚えるリソースが尽きた。そのことを聞こえのいい言葉にすることすら欺瞞に思えて投げやりになった。仕方ないことなんだよ、というのは本当に大人らしい言葉で、大人になったら、仕方ないんだ、と思うようになってしまった、ということは、これは別の側面から虚しい。

 という僕のお気持ち、あるいは僕の御思想、考えたことなどは、これあ実質無料で、Mくんから飯に行きましょうとメッセージが来た時、僕はそれを社交辞令などとは受け取らないし、行こうと言ってくれるならいつでも行こうと思うし、むしろ行きたい。メッセージを返信したのがもう8ヶ月前だったろうか。阿呆な話のひとつとして、あまりに大人の時間が早すぎること。時間の速さに慣れすぎたこと。8ヶ月くらいならば全然「昔」だとは思わなくなったことなどが阿呆。 感性が鈍麻したことを言い繕うために大人というレッテルを貼っているだけの気もした。時間が合えば、スケジュールが合えば、体調が、気持ちが、波長が、とにかく何かが合致したら、その時は、今度こそは、また次は、次の次は……などと言い合っているだけの時間が僕は明確に嫌いだ。秋葉原に行きましょう、とメッセージが来て、行きますと返信をして、夜勤明け、ネオンがぐわんぐわん輝いてアニメの歌声がぎちぎちに響く電磁波の町で、Mくんは8ヶ月前より少し緊張した顔をして、見たことのない服を着て、きちんと呼吸をして、僕の顔を見てししみさん、と笑う。