映画ペンギン・ハイウェイを見たら思っていたよりもずっと夏だったので、夏の自分がどんな風だったか思い出せないことを思う。夏の空気に含まれている生き物の匂い、生と死の匂い、が夏の姿なのだとしたら、冬の風の無生物の匂い、シベリアの鉱物の匂い、はただ純粋に殺気みたいな空気を含んでいる。そう思うのは、寒さが嗅覚をすこしだけ破壊しているから。あたたかさやつめたさには匂いはないのに、あたたかいものやつめたいものの名状しがたい匂いは教わらなくてもしっている。それはたぶん生と死が生き物から発せられることを知っているからで、無生物の熱のない粒子の匂いを知っているからなんだ、と自分は、青山くんとお姉さんを見て考えた。夏の山と、川と、それから海と、偽物の海と、ペンギンと、偽物のペンギンと、世界の裏側と表側で、物語は回転している。冬の物語と、夏の物語と、どちらがより悲しいかを考える時、自分は悲しくなりたいのだろうか、たとえば傷ついた時に傷ついた音楽を聴くことは、心の状態に操作可能な外界の状態を合わせることは、心を落ち着かせる効果があるのだという。だから楽しい音楽を聴くことは、操作可能な外界をフラットより高い位置に置くことによって、精神の状態を引き上げたい時なんだ。だとするなら、夏の映画を見たことで、輪郭の曖昧な悲しみのことはこの際放っておいても、少なくとも夏のような気分になりたかったのかもしれないね。

 それが逆説的にとても冬です。