のらくらノーフューチャー

 日常生活の中に問題意識がない。ふと気がついて、それを幸福とした。おそらく人生の中で今、もっとも幸福な時期を過ごしているのではないか。困ったこと、嫌なこと、怒っちゃうことなどが、心に絡みついて来る時、絡みついてきた悪感情を巴投げしたり、コブラツイストしたり、パイルドライバーし返したりできるようになった気がして、それはただたんに加齢によって感受性が萎れただけ、の気もするけれど、それならそれで受信した信号がポジティブであることは、やはり幸福に違いないと思う。たとえ今だけにせよ。明日のことは不明だけれど。何も持っていないけど幸福です、というだけのこと。

 昨日は、月曜日が休日だったので映画を見に行った。これをオリジナル四字熟語で月休映行と呼んでいるのだけれど、月休映行の中には小さなくくりとしてステーキが含まれており、本屋さんが含まれていて、帰宅時の散歩も含まれている。その一連のフローが月休映行で、そのことを何度も何度も書いたので、もはや僕が書く意味がほとんど喪失していると思っていて、おそらくたびたびこのブログを見てくださる方々におかれましては、書く前から何を書くのか予測できるというマンネ・リズムの様相を呈していると思われるので、書かないことにしたけれど――書きたい時は書くけれど――もし本当に、書く前から書く内容が分かるのだとすれば、これほどすばらしいことはなかった。人と親しくなるということの意味を、その辺りに見出している。だので、予測できていればいいなあと思っている。予測できなくてもいいなあと思っている。

 繰り返される月休映行の中に、突然ぽかりと幸福が浮かび上がってくることが最近増えて、それは月休映行をはじめた当初には予想もできないことだったし、幸福が目的ですらなかった。自分が「割合気持ちよく一日を過ごせるパターン」として、消極的に採用していた一連のフローが、いつの間にか定着して、そのことがいつまで経っても飽きず、またうれしい、みたいなことってあるんだなあと発見している。振り返ってみて幸福だったなと再発見することは、喪失してから創出する幸福だけれど、繰り返すことでリアルタイムに現出する幸福というものを――それは厳密にいうと気持ちよさとは違うような感じがする――ようやく理解できるようになったのだと思うし、たしか春樹さんが書いていたと思うけれど、我慢しないと本当の面白さはわからない、みたいなことだったっけ、なんだかそういう意味のことをぼんやり思っています。ぼんやりと。それでもちろん蛇足のことだけれど、面倒くさい日ももちろんあるということを、光の使者になりたくないから書いておきたいです。

 それで今日は、また一日部屋に引きこもって映画を見ていた。映画を見ながら、著しく時間を浪費しているような気分になる時と、やっぱりこの時間はとても最高で素晴らしいことだという気持ちと、二種類が交互にやってきて、そもそも浪費だと考えるなら、他の何に時間を費やすのが正解なのか一度じっくり考えてみなさい、と僕の心の導師(ししみ導師)がおっしゃったので、一生懸命考えてみたのだが、たとえば資格試験のお勉強や、スポーツジムに通って体を健康に保つこと、語学留学、ボランティア活動、休日出勤など、ものすごくちゃんとした意見がたくさん出てきて、なるほどたしかにそのような社会的にも価値のある時間の使い方をすれば、社会的な自己にも、また個人的な自己にとっても有益だ、と納得はしたのだけれど、では本当にそのようなことを「やりたい」とそなたは思っておるのか、と導師がしつこい。促されて考えてみると、そこまでやりたくないと分かり、じゃあ今、現在、なう、僕がやりたいことは何なのか、といえばこれは映画を見ることであり、では何故僕が映画を見ることで負の感情を覚えたのかというと、おそらく未来に対して不安をいだいているから、「このまま映画を見続けることで、時間が浪費され、真っ当な時間の使い方ができないように感じるから」なのだと分かった。つまるところ、今やりたいのは映画を見ることだけれど、それは未来に対して不利益であると予想したから、なのだよな。本当にそうなのだろうか? 今、映画を見ることは未来に対して不利益なのだろうか? それは一体何故そう思うの? と考えてみると、根底にあるのはやっぱり教育なんじゃないだろうか。お母さんが、ゲームをやっていないで勉強をしなさいと叱ること、教師がマンガを読むと馬鹿になるよと叱ること、積み重ねられてきた数々の否定の言葉が、僕の深層心理までがっちり食い込んで、大人になった今でも、その言葉に首を絞められていないか? なんだかそんなのバカバカしくないか? なあししみ、お前まだ子供なんだな。子供のままだから、好きなことをやってるときに、罪悪感を覚えんだな。かわいそうに。お前が受けてきた教育とかなんとかは、お前を一生苦しめるためのものだったんだな? と、突然パンクスのししみが現れ、ノーフューチャーだよ人生は、と一喝して去って行きました。

 僕、仏教の本を読んで、釈迦も「現在しかない」みたいな教えを説いているのを読んで、ははあ、パンクスと釈迦は同じようなこと考えるもんだなあと思ったものです。それで何が書きたかったか忘れましたけれど、なんとなくほわほわ幸福であるということは、幸福そのものであるってことだと思いました。