普通、物体と情報

 席が無かったので、空いているところに立ってスマートフォンで電子本を読むことに、最近ではすっかり感興を覚えないけれど、はじめて「えいや」と購入した一冊目、を読書する時は本当にどきどきしたもので、それは読書なのに、まるで別なことをしている気になった。違和感は薄れ、特別感は薄れ、慣れがあれこれを普通にしてくれるのに、僕はまだ僕が普通になったとは思えない。もう本当に長い年月を僕として私として俺としておいどんとして朕としてそれがしとして生きてきたくせに、自分にだけはいつまで経ってもなれることがないの、これいつまで経っても新しい感じがするの、良いことなのか悪いことなのか、はっきりせぬが、たぶん自分というものがはっきりと確定して凝固することなんて無いのだろうなあと思うの、間違っているかもしれないけれど、このメレンゲのメンタルの僕を、あなたの特別ではなく、あなたの普通にしてくれませんか。

「あなたの普通になりたい」

 という言葉を考えたんですけれど、エモくないですか。エモいですね。昔、人に言われたことがありました、同じようなことを、思い出してしまいます。日々新商品が生まれ、新しいアイデアが、新しいアイドルが、新しい人が、とんでもない速度で生まれ、ふっと消えていく中で、ごく一部の定番商品が、普通として残り続ける普通の奇跡が、普通ってえらいんだなあって思う根拠ですの。プラスでもマイナスでもなくフラットでありたいものだな。フラットが意味しているのは、永遠かもしれないな。水平線のように。

 電子書籍を、否定派だったのですが、電池が切れると読めなくなる本なんというのは、信用ならんよと思っていたし、電子書籍はすこしお高いし、電子書籍を読める端末は、落としたら壊れるんですよ。ピーガガーですよ。そんなのは、本としてあまりに脆弱ではないのかと、本は、安くて頑丈でちょっと濡れても平気で、かばんの中に入れてシャッフルしても、落としても、へいちゃらへいの癖に、知的なんだぜって、そういうところがだいすきだった。眼鏡でマッチョな本を、僕は信用していた。それが、眼鏡ロボになってしまった電子書籍と、果たして本当に仲良くなれるんだろうかと心配しておったのであるが、慣れて成れると、ロボの良い面もあるよ。ロボは目が光るでしょ。ぴかぴかでしょ。暗いところでも明かりいらずで読める文字、光を放つ文字を手に入れた。モノリスの文字が発光するなんて伝説の石板だった。手のひらサイズの端末の中に、千冊も本が入っているというのは、四次元本棚でもある。まだ引きずっている傷痕のことを女々しく話してもよいだろうか。再三話したことを、再四話しても良いだろうか東京に、引っ越して来た時、僕は部屋中の本棚の本500冊をブックオフに売った。CD500枚とギターとベースとアンプとドラムを売った。その時絶望して全財産と引き換えに手に入れた宝物を自分は、全てを、まったく何もなくなってしまったという喪失感で眠れなくなったんだ。物体なんていうものは、本当には所有することができない。それは、ほんのわずかな期間、手元に置いておけるだけのこと。万物は文字通り流転する。物を所有するということは、いつでもそれを手放す寂しさを所有すること。ということを知ってしまい、吝嗇になりました。もう、さびしい思いをしたくなくなりました。だから東京では本をあまり買わないようにしていたのですが、電子書籍は、もしかしたら、その手放す悲しみをそこまで味あわなくても済むのかもしれないなあと、そんな風にかんがえてみることもあります。それはものではなく情報だから。物はなくなるけれど情報はきっとなくならないから。という話をしたら知人が「ユダヤの教えじゃん」と言ってきて、学んだことは奪うことができない、みたいな教えがあるらしいんですけれどもね、世界中で物体がかなしい。延長自我がかなしい。せめて大切だったものの手触りを、大事に覚えていよう。ロックマンのキーホルダーのつるつるした手触りをだいじに生きよう。

 電子書籍伊藤計劃さんのブログ本を買って、ちょっとずつ読んでいるのだけれども、記されている映画への愛、SFに対する深い知識、小島監督への尊敬の念、などがひしひしと伝わってきて、なんだか自分が矮小に思えてきて恥ずかしくなるくらい良い文が書いてあるのだけれど、この気持ちをどこかで感じたことがあるようだ、と人生を巻き戻してみるとこの本、もう何年も前にたぶん読んだことがあるんだと気がついて、忘れていた。ユダヤの教え! 時の流れに葬られた記憶のことを思うと、記憶・思考などというのも随分頼りない儚いものですから、この事実を文字にしておこうと思うんだ。どこにでもある普通の日記にして。