最後の旅

 最後の旅をしようと考えた。

 鞄には着替えを少しだけ入れる。財布と携帯の充電器も。メモ帳とペンを。それから折りたたみ傘も。カメラはいらない。でもマフラーを持ってゆこう。知らない街で迷子になって、もし路地裏で冷たくなることがあったとしても、マフラーをしていたらうれしいだろう。

「雨が降るかもしれないですよ」ゴーレム君が教えてくれた。「山は特に冷えるみたいですよ」

 電車の時間が迫っているのにいつまでも部屋の窓を眺めていた。旅行は楽しいという先入観を持っていた過去の自分が、余裕を否定しようとする。きもちは充満していなければ嘘なのだ、と彼は思い込んでいる。空白があってはいけない。満たされなければならない。鞄の中のスペースは、ただの空白ではなく余白だ、と現在の僕は考えている。どちらでもよい。でも、もし魔法の小動物が仲間になったら、その時、彼を隠すためのスペースは必要だ。

 電車の中では読書をしていた。車窓から見えるのは東京近郊の町並みそのままで、注目したい景色ではなかった。見たいのは断層からのぞく化石だ。町外れの魔女の家も。直径10kmのクレーター。重力異常地帯を散歩する老人と犬。車窓より本を見ていた方が機会はある。

 電車からバスに乗り継ぎ、目的の町にたどり着くと、吐く息が白い。山の斜面に作られた温泉街は、あちこちから蒸気を吹き上げていた。麓から頂上まで石段が続いている。狭い石段の両脇に、古めかしい店が所狭しと立ち並ぶ。駄菓子を売る店のにぎやかな色が目を引くかと思えば、饅頭屋の亭主が黙々と厨房に立っていることもある。射的屋から威勢のよい炸裂音が聞こえてくる。旅館の壁は歴史の彫琢を受けてひび割れ、黒ずんでいた。遠くには紅葉したうつくしい山が見えた。山肌を雲の影がゆっくりと進んでいく。昭和を色濃く残した温泉地に旅行客は少ない。どことなく嘘くさくて、ひなびた雰囲気も書き割りのようで、町が本当には生きていない感じがする。生者の論理に従っていない、縁日と同じ匂い。

 底冷えのする石段で、金魚が空を飛んでいる想像をした。よくわからないけれど、この町は森見登美彦さんだと思った。熱海も。

 旅館は石段の通りから暗い路地裏を抜けたところにあった。チェックインを済ませて部屋に案内してもらう。い草の匂いがする八畳の座敷の真ん中に炬燵と座椅子が出ている。壁一面の窓ガラスからは赤い山が見えた。しんと静まり返っていた。壁には常のごとく絵がかかっている。メロンとバナナ。風景でも抽象でも花瓶でもない、メロンとバナナ。おもわずあたたかい気持ちになる。炬燵に入って本を読んだ。

 夕暮れが近づいてくる。石段の頂上の神社をお参りする頃には街灯が点きはじめた。酷く寒いのでマフラーを巻く。神社から続く道を、さらに山に向かって歩く。街灯の数も少なくなり、観光客はもう見かけない。「飲泉所」と書かれた看板を頼りに、真っ暗な道を歩いていくと、山道の傍に、茶色く錆びた水道管から水が噴き出している小屋があった。蛍光灯の明かりが夜の中にぼうっと浮かんでいる。錆びたコップがひとつ置いてあり、よく洗って使ってくださいと注意書きがある。噴き出している水は温泉の成分が含まれている。手にすくって一口飲んでみると、血のような味がした。鉄をなめているみたいだった。

 更に山に向かって歩く。道の果てには露天風呂がある。正体はよく分からないけれど、インターネットの案内や、観光案内にも書かれている露天風呂だ。〇〇の湯、とかそういう名前は無いみたいで、何を見てもただ露天風呂と書かれている。看板の矢印も適当だし、とある旅館の敷地内に道があったりして、たどり着くまで、本当に露天風呂があるのか不安だったけれど、それはある。古い木造の受付には、高校生くらいに見える男性が座っていて、スマートフォンを操作していた。券売機で買った入浴券とタオル券を小窓から渡すと、手ぬぐいをくれた。受付のすぐ横には暖簾がかかっていて、くぐると男湯と女湯のふたつのドアがある。男湯のドアを開けると、もう目の前が露天風呂になっていた。体を休めるロビーだとか、脱衣場だとか、そういうものが一切ない。いきなり温泉。石で作った浴槽の横にロッカーが並んでいて、すのこが敷いてある。山の中で、しかも寒波が来ていて、おそらく気温は零度に近かったから、服を脱ぎながら「寒い寒い」と小声で呟いてしまう。ゆっくり着替えている暇もなく、コートもズボンも鞄も全部ぐるぐるまとめてロッカーに突っ込んだ。ゴムのついた鍵を手首に巻いて、雑然と置いてある木桶でかけ湯をすると、これが熱いお湯だったので一人でうううとうなった。急いでお湯に浸かるとため息が出た。冬の、引き締まった空気の中、あったかい温泉に浸かるのは、とても気持ちがいい。客はひとりも居なかった。空を見上げると木々の隙間から星が見えた。なんだか笑えてきた。僕は何をやってるんだろうと思ったし、人生でこんなことをすることになるなんて思ってもみなかったし、やってみたら最高だった。冬の露天風呂。

 旅館に戻る。夕食は宴会場に用意されている。周りはみんなグループで食事をしている。僕はテーブルに一人で、こういう時はやっぱりすこし心細い。若者のグループに「友達いないのかな」と指をさされて笑われているのではないだろうか。ビールを一本もらうことにして、遠慮をしないことにした。一人が浮いてしまうのは仕方ない。しかし、浮いていようが、浮いていまいが、僕がやりたいことには変わりがない。目の前に広がる数々の美味しいおかずを食べ、ビールを飲み、本を読むこと。旅行先の宴会場で読書している人間は、僕だけだったけれど、もうどう見られてもいいと思った。変人でもいい。

 部屋に戻ると布団が敷いてある。テーブルの上に本がきちんと並べてある。お母さんが勝手に部屋を片付けたみたいになっている。布団に入ってまた読書をはじめた。深夜に一度、旅館の温泉に入った。それからまた読書をした。岡本太郎さんの『今日の芸術』という本。この本の序盤に、こんなことが書いてある。

”われわれの生活をふりかえってみても、遊ぶのには、まったく事欠きません。そして、ますますそういう手段、施設はふえるいっぽうです。だが、ふえればふえるほど、逆にますます遊ぶ人たちの気分は空しくなってくるという奇妙な事実があります。遊ぶにしても、楽しむにしても、ほんとうにたのしく、生命が輝いたという全身的な充実感、生きがいの手ごたえがなければ、ほんとうの意味のレクリエーション、つまりエネルギーの蓄積、再生産としてのレクリエーションはなりたちません。”

 温泉旅行の最中に読むべき本だった。大人のイメージって、虚しさに慣れることだった。感性をすり減らして平均値にすること。プロのお客様になること。何のリスクも犯さずに目の前を流れていく時間に身を委ねること。自動化されてお墓まで行くこと。それはそれで穏やかでよい生き方だと思う。用意されたもので満足することもあると思う。そういう人間が量産されなければ社会が成り立たなかったんだと思う。そして僕もそういう人間だったのだと思う。全然クリエイティブでも芸術的でもないし、何も感じないことが割と好きだ。でも今回の旅行で言えば、山の露天風呂には生きがいの手ごたえが確かにあった。南の島に旅行に行った時、三日間ずっと原付きに乗って島の中を走り回って海も山も牛も見て、突然豪雨に襲われてびしょ濡れになって、突然晴れて、生きがいの手ごたえがあった。そういうことなんだろう岡本さん。僕はそういうことなんだと思うよ。用意されたものの枠から飛び出すことはどんな状況だって起きると思うよ僕は思うよ。

 チェックアウトして石段の街を出る。震えながらバスを待って、大きな駅に戻る。電車を乗り継いで帰宅する途中で、不意に思い立って美術館に寄った。駅ビルの中にある美術館で、まったくお客さんがいなかった。知らない町の美術館で、知らない世界を見る。僕の好きな景色は、やっぱりそういうのだと思う。

 

 

 

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