10秒でモンスターになれる

 電車に乗ってつり革につかまって読書をしていた。仕事からの帰宅中で疲れていた。左の方から大きな音がした。傘が倒れる音だ。反射的に音の方を見ると、通路に赤い傘が伏せている。持ち主であろう若い女性は、スマホを操作していた。真剣な顔をしていた。

 よく見る光景だった。僕も膝の間に立てた傘を倒してしまったことは何度もある。かがんで傘を手に取るのが億劫なのだよな。読書に戻って数行進む。違和感というほどでもないけれど、なんだかざわざわした空気を感じ、再び女性の方に視線を向けた。傘は通路に倒れたままだった。

 伏せた傘の対面には三人のグループがいて「気づかないのかな」と、話していた。その声は離れている僕のところまで届いた。傘を倒した女性は、本当に傘が倒れていることに気づいていないのだろうか、それとも意図的に無視しているのだろうか。女性はまともに見えたし、動けないほど荷物を抱えているわけでもなく、もし気づいているなら傘を元に戻すのは容易のはずだった。でも戻さなかった。

 電車は駅に停まり、降りる客と乗ってくる客が倒れた傘をまたいだ。ドアが閉まり電車は駅を出た。傘はそのままだった。

 10秒でモンスターになれる。倒れた傘を直さないことで、それをあげつらうことで、それらを見続けることで、最初から最後まで完全に無視することで、電車の中にはもう、ひとりもまともな人間がいないみたいだった。