ものを綺麗にすること

 机の横にシンセサイザーが置いてあって、それはもう長いこと埃をかぶっており、なんかの遺物のようになっていて、金属製の足元には本や書類やチラシや思い出や、わけのわからないものがたくさん集って集落を形成していた。それを創り上げたのは誰あろう僕、僕なのだが、印象としては自然発生したように思われる。つまり創ろうと思って創ったわけではないのだけれど、創ろうと思って創らなかったからといって不必要なわけではなく、そういうごちゃごちゃのカオス状態でも何が埋まっているのか潜んでいるのかは、おおまかに把握している自信があったし、出来ることなら動かしたくないという消極的な永続を望む欲求が確認されてしまう。そのごちゃごちゃした魔女の大鍋のような見苦しい空間を思いのほか好きだった。好きだったけれど、好きだからといってそのままにしておくのは社会通念上良くないということを承知してもいた。つまり片付けた方がよいよねとは思っていた。誰に見せるわけでもないけれども、綺麗であるほうが精神衛生上よろしいことも確かなのだ。誰に見せるわけでもないものを片付けることは、誰かに見せるために片付けるよりもより立派な行いなのではないかと不意に思い立ち、結句片付けることにしたのだけれど、片付けようと思うと気がヘヴィーになっていくので、そういう時に、気を紛らわせるためにすることがたったひとつだけある。

 とても気が重い時に、それでも何かをやろうと決意した時、そこに音楽があると何故か気分が少し前向きになるという現象に名前がありますか。きっとあるのだろうけれど、音楽をつけながら作業をすると案外心が軽くなる。スマートフォンSpotifyを立ち上げて新しい音楽を流しながらシンセサイザーのコードを外し、埃を拭いて部屋の隅に寄せる。新しい音楽のきらびやかな音色と繊細な歌声とに相反するちくちくした歌詞などを聴くともなく聴いていると作業は予想通りに進んでいき、昔よく使っていたバッグや、全然使わなかった雑誌の付録のかさかさした小バッグなどが出てきてゴミ袋にそっと収納する。まだ読んでいない本はウェットティッシュでかるく拭いて積み上げ、パッケージを解いてもいない編み棒に愕然とし、石膏みたいに固まる美術用の高級紙粘土に至っては何を目的に買ったのか全く思い出せず絶望し、各種イベントで集めたチラシは速やかに捨てることにして、新品の赤と黒のスプレー缶は、手作りのゴミ箱をペイントしようとしていたんだったなあと思って数年前の自分を微笑ましく思いつつも、親しかった人からもらった20文字の手紙、たった20文字の、納品書の端っこにものすごく小さな文字で書いてあるお手紙を発見した時、作業を中断せざるを得なかった。リビングに寝転がって少し気が遠くなる。窓の外は白い光。きっと曇っているんだろう。人と人と、人と人と、わからないなと思う。でもわからないのなんて当たり前のことだった。どうなるかなんて、明日僕は交通事故で死ぬかもしれないし、その逆だってあるだろう、そしてたいがいはどうにもならず、この平穏な時はこの先もずっとこのままぼんやりと終わっていく。どうせ終わるならその時まで貧乏性を発揮してがんばってみてもいい。失敗したくないなら家に引きこもっているしかないから、それは不死身の花と一緒だから、取り返しがつかないくらい失敗をしてそれでそのたびにまた家を出てどこかに行くことだけが僕にできることなんだろう。

 以前、僕は清掃業に従事していたことがあった。床をポリッシャーで磨いたり、その洗浄液をスクイージで集めて缶バケツに入れたり、雑巾でトイレの鏡を拭いたり、油汚れが石のように固まった換気扇を危険なレベルの洗剤で必死に擦ったり、先輩たちとワゴン車の荷台で煙草を吸ったり、そういう仕事だ。その時、僕は掃除とか、ものを綺麗にするということが、一体どういうことなのかを知った。
 掃除というのは、ある汚れを、別なところに移すことだ。
 床を洗えば、汚れは洗浄液に移る。
 ガラスを拭けば、汚れは雑巾に移る。
 そうしてただ、汚れを移動させているだけに過ぎないので、本質的は汚れは巡り巡って消えることがない。
 なので、ぱっと見きれいになっていること、が掃除の極意だと思います。
 すっかり汚れてしまった僕の心を、案外そのままにしておきたい気持ちは、やはりあるけれど、社会通念上、お風呂に入ることにする。