お墓参り

 お墓参りすることにした。

 JR巣鴨駅で電車を降り、大塚に至るまでの道のりを歩く。
 36℃真夏日の炎天下。溶け出してるのはアスファルト。明瞭さにとぼしい思考もさらにゆるくなっている。
 巣鴨と大塚の駅は山手線で隣同士。線路沿いの道を歩いていくと迷うことなくたどり着ける。
 熱のこもった住宅街を縫うようにして道は続いていく。ガードレールの向こうには軌道が伸びる。青空が狭い。けれど遠近の全てから生活の気配がするから寂しさはまるでない。
 白いシートが張ってある作りかけの家屋の前に、土と同じ色をした二人の男たちが座り込んで静物のようだ。すぐ近くから不吉な踏切の音と蝉の声とがする。背後から近寄ってきた原付きを避けると、はずみで額から汗が流れ落ちた。半袖から出ている腕がひりひりした。靴下が靴の中で脱げかけている。見慣れない町を歩いている時、ふとこの夏は、いつかと同じ夏だなあと思う。春秋冬はいつも違うけれど、夏だけはいつも神様が使いまわしている。

 大塚の駅前は人が多いせいか、車両の交通量が多いせいか、住宅街の道よりも更に暑く感じられた。
 路面電車の小さな駅に入るとすでに列が出来ていて、人々は汗をぬぐったりぼうっとしたりで忙しそうだ。列の一番うしろに並んで待っていると、一両しかない小さな電車がおだやかにホームまでやってくる。細長くて狭い電車はバスにそっくりで、降りますボタンが車内にたくさん設置されていた。初めて乗る都電の車窓は、都会の生活の中をゆったりと横切ってゆく。

 雑司ヶ谷の駅で降りると、目の前に霊園がある。遠くからでもお墓があるということがなんとなく分かるのはなぜだろう。霊園に漂う静謐な空気は、目には見えない大きなベールになって霊園を覆っているみたいだ。
 お墓が並んでいる光景は、それでも明るい太陽のおかげで恐ろしくはなく、その代わりに敬虔な気持ちにさせる。それは本当に敬虔という言葉しか当てはめることができない気持ちだ。ここに眠っている人がいる、という事実が、事実のままで心にぶつかってくる。お墓は霊園の1-14-1にある。

 霊園の中を通っているアスファルトの道で、犬を散歩させている人に出会った。彼女は全身真っ黒な服を身につけ、黒い日傘を差し、白いマスクをしていた。しばらく歩いていると「~~ちゃん! ~~ちゃんおいで! ほらこっち! こっちにおいで! わかんないのかしら」という声が背後から聞こえてきた。「わかんないのよ」と別の女の人が呟いた。「わからないんだろうか」と僕は思った。本当は分かっていて、でもそっちに行きたくない気分だな、ということもあるんじゃないだろうか。陽炎の向こうから白髪の男性がゆっくり姿を現した。彼は桶と柄杓をぶら下げて、少し空を見上げて歩いていた。作業服を着た集団がみんな肩を丸めてひとつの石の前でうなだれていた。カラスが二羽、口を半分開けて、羽を持ち上げて暑がっていた。地面にはカブトムシの頭が転がっていた。石はみんなまっすぐ前を向いていた。誰かを待っている風でもなく、誰かに置いていかれた風でもない。ただまっすぐ前を向いていた。

 お墓参りをする時は、心の中で話しかけるんだよと、小さい頃に教わったので、
「ありがとうございます」と話しかけた。
「あなたのおかげで僕は、たくさん嬉しいことがありました。楽しみにしていることがたくさんできました。あなたみたいになりたいです」

 死んだ自分と会ったなら、生きてる僕をわらう気もする。しかし、生きている僕は、死んだ僕をわらう気にはまだならない。手を合わせて、はじめて会った時からずっとそうしてきたように、一方的に思いを巡らせている。