VTuberの言葉と愛

 とあるVTuberが、視聴者の質問に答えるコーナーで、
「僕は自分を好きになれません。どうしたら自分を好きなれますか」
 という意味の質問を受けて、こんな風に答えた。
「自分を好きな人に、もっと好きになってもらえるようにすれば、自分が好きになれるはずです」
 その言葉がずっと頭にひっかかっている。
 いい言葉だなあと思う。自分を好きな人に、もっと好きになってもらうこと。
 どうしてこの言葉を良い言葉だと思うのかというと、この発言の前提に「自分を好きな人がいる」という事実が含まれているから。
 そのことを、発言者が当たり前だと思っていて、微塵も疑っていないから。
 自分を好きな人が、ひとりもいないという状況が、想定されていないから。
 それはおそらく性善説のような、根底に普遍の愛がある考え方で、なおかつその考え方を、他者と共有しようとするから、良いなあと思うんだろう、と僕は考える。
 あなたにも、あなたを好きな人がいるということを、思い出してみて。と、僕は勝手に解釈する。

 自分を好きな人が、ひとりはいるかもしれない、と考えてみることは、答えが思い当たるならば良い事かもしれない。
 それは例えば両親だったり、兄弟だったり友人だったり、恋人だったり、あるいは会社の上司や同僚でも良いのだろう。サークルの仲間や、居酒屋でいつも顔を合わす人や、隣の家に住んでいるおばあちゃんでも、もはや人間ではなく動物や、ぬいぐるみや、自らが作り出した架空の人物でも良いのかもしれない。
 この段階でおそらく大事なのは、自分が何者かに好かれている、という認識を強化することではないか。本質的には、人間は自己以外の他者の気持ちや思考を、完全に理解することは出来ないので、出来ないからこそ、表面的に観察される言動を信じる以外にない為、それがたったひとつの真実である、と単純化して考えるのも良いかもしれない。
 あなたが好きです、と言う人の気持ちをあれこれ推測することには、あまり意味がないのかもしれない、という意味でもあり、あなたが好きです、と言う時の気持ちは(それが移り変わることはあっても)嘘ではない、という意味でもある。少なくとも仲が悪い状態ではない、と自分が考えている相手は自分のことが好きなのだ、くらいの大風呂敷を広げても、それを大々的に表現するのでなければ、害はないと思う。
 ここでひとりでも自分を好きな人、を自らの中に獲得したら、次の言葉について考えられる。

「自分を好きな人が、もっと好きになるように」
 この段階では、自分のどこが好かれているのかを把握する必要があって、自分のことが好きではない人にとっては、価値を他者の中に推測することになるので、自らの長所を並べていく行為よりは、実は楽なのではないかと思う。
 この考え方では、相手が表面的に(実際に)見せた言動・態度が全てなので、喜んでいるように見える、楽しんでいるように思われる、という断片を集めて、思い当たったシチュエーションが増えるようにする。好かれそうな言動を増やして、フィードバックを受けたら適宜修正をする。ここで世の中にたくさんある、便利なフレームワークを使用するのも良い。
 最終的に、自分を好きだと思われる人の、自分を好きだと思われる言動・態度の量が増加することで、僕はより自分を好きになることが出来ている、はずだ。

 はずだが。
 書いて、書きながら考えていて、実際に頭の中で相手に好かれそうな言動を取っている自分を、また相手が思い通りに僕を好きになってくれることを、そんなことをへんてこな段取りまで作って頑張っている自分を、今の僕が全然好きになれなくてびっくりした。
 ◯◯さんに好かれたい。という気持ちは分かる。健全だと思う。
 ◯◯さんに好かれている。と感じることは嬉しいことだ。
 ◯◯さんに好かれている自分が好き、という気持ちも分からなくはない。
 けれど◯◯さんに好かれようとして頑張っている自分は、全然これっぽっちも好きではない。他者を操作しようとしているように感じられるし、人をダシにして自分を高めているような気分になってしまうし、何より媚びへつらっているようでもある。なぜだろう。

 分かった。前提が大事だったんだった。
「自分を好きな人に、もっと好きになってもらえるようにする」
 この言葉で最も重要なのは、やはり「自分を好きな人に」という部分だ。
”◯◯さんに好かれようとして頑張っている自分”という言葉では、一方的で操作的な印象を受けるけれど、
”僕の事が好きな◯◯さんが、もっと僕を好きになってくれるように”とすると、背景に良い循環が見られるし、双方向的でもある。こちらの言葉には相手の意思を尊重している部分がある。その上で結果的に自分のことがより好きになれる、とするならやっぱりこの言葉には、最初の一歩でつまづかなければ、良い効果があると思う。
”僕の事が好きな◯◯さんの為にプレゼントをする”のは気持ちが悪くない。
”◯◯さんに好かれる為にプレゼントをする”は、意味が広すぎて良くない。

 途中で気持ちが悪くなったのは、考え方の中から愛が抜け落ちていたからだ。
 前提の愛が欠けると、途端にめちゃめちゃ虚しくなる。
 その前提を忘れないことが一番むずかしいことのように思うけれど、事実として僕を好きだと表現してくれる人を、僕が笑わせることができたらそれは単純にすごく嬉しいし、結果として自分を好きになることはきっとある。

 ただの思考遊戯だったけれど、僕は納得して、とりあえず愛をささやくためにカエルのぬいぐるみを手に取りました。
「僕はかわいいカエルさんの事が大好きだなあ!」と念じてみると、ぬいぐるみ一族は基本的に愛で出来ているので「僕もししみがほんとに大好きサ」とカエルさんは僕の脳に直接語りかけてきました。
 そういうことをやっている自分はまあまあ好きです。