整理のつかない最近のこと

 どうも幾分疲れているようだった。疲れているだけならまだしも、頭の具合が良くない。思考のバランスを欠いている。そのようなよくない状態が長期に渡って続いており、休息の仕方も忘れる。睡眠が一番の薬だと判ってはいる。けれど眠れない時期も突然やってくる。このストレッサーは一体なんなのだろうか? ぼんやり考えてみると、やはり原因は僕自身なのだろうと思う。悪いことの大半は僕自身が招いた。因果を辿ると年単位で過ちを繰り返していたりする。八方塞がりで、どうも未来は無いように感じられる。GAME OVERだ。真っ黒な画面に白抜きで表示される終わり。そこで5秒ぐらい真剣に絶望する。本当に駄目な人間だな、僕は。もう消えてなくなった方が世のため人のためなんじゃないか。サヨナラ! そこで僕の魂はたしかに一度幕を下ろした。終劇。精神が死に尽くした。けれど身体は生きている。呼吸と鼓動が止まらない。真っ暗で何も見えない空間に文字が浮かび上がる。今度はGAME OVERではない。終わってしまったものを終わらせることはできない。だから次は必ずCONTINUEだ。やまない雨は無いし、夜の次には朝が来るし、一回死んだら王様に「情けない」とか言われながら何度でも蘇るものだ。死んだらそりゃあ情けないかもしれない。でもリブートの後、大抵の不具合は解消されているものでもある。一回死んでおくか、と考える時僕が考えることは、まあまあいつも、そんなようなことである。

 東京都知事が東京アラートの発動を宣言し、レインボーブリッジ及び都庁が赤色にライトアップされた。一体どんな意味があるのかと同僚は述べる。そんなことは僕にもわからない。意味という言葉はあまりにも便利すぎるから、ここでは効果と言い換えてみる。都庁が赤くなることでどんな効果があるか? 少なくとも「意味無いよね」という話題が生まれる。まだCOVID_19はここにいるよ、と意識付けることが目的なのでは? 何しろ目にも見えず匂いもしない生き物だから、彼らを忘れることは簡単だから。それ以外の効果は、やはり僕にはわからない。ニューノーマル(新常態)に必要なのは見えないものを信じる力なのかもしれない。仏像や仏壇と同じような意味で、都庁は赤く光っているのかもしれない。そんなことがあった日に、Tシャツについて書かれた村上さんのエッセイを読了した。僕はどんなTシャツを持っていただろうか。思い浮かべてみると、バンドTシャツか、オタクTシャツだ。特徴のないTシャツはほとんど捨ててしまっているか、そもそも思い出すことさえできない。ためしにボックスの奥を探ってみたら、相棒が行方知れずになった靴下が出てくる。それから、老け込んだ水中メガネもみつけた。僕は彼らをベッドの上に並べ、じっくり眺める。そして両方ともポケットに突っ込む。

 スキンヘッド、シカゴブルズの赤いショルダーバッグ、オータニ17番の赤いTシャツ。とその日の日記には記されていて、それがなんのことだか一瞬では思い出せないのだけれど、たぶん駅で見かけた素敵なおじいさんの服装で、服装というものはその人に合っていればなんでもよいな、とずいぶん前から考えている。そしてボーガンが発射され、大学生の男が殺人未遂で逮捕される。男は家族を複数殺害したと述べ、非正規労働者が減少し、休業者が増える。雇用情勢は悪化している。中野ブロードウェイの路上で肩にオカメインコを乗せた男性を見かける。本物のオカメだった。思わずじっと見てしまう。とても仲がよいのだろう、騒がしい雑踏の中でオカメは、肩に止まったまま動かない。ブロードウェイの艶丸という店でラーメンを食べた。何度も食べている。日差しの強い、暑い昼下がりのことだ。カウンター席しかない狭い店だけれど、癖の無いスープがとてもいい。細麺に繊細な出汁の味だけが絡む、上品な味だ。それはまるでほんのりと味のついた白湯のように淡白だけれど、わずかな味の中に深い広がりがあるので、もっとたしかめてみたくなる感じだ。恐い映画で、幽霊がちらっと映る、あれである。僕は知りたい。

 ブラジルの死者が3万4000人以上になる。ボーガンに規制をかけるか検討している。ゲームソフトに対する支出は2倍になる。解雇や雇い止めが2万540人になる。僕はメモ帳に「物語のゴールは二種類しかない」と書いた。僕は腕時計について考えている。海水浴場で事故が起きる。バンクシーが警鐘を鳴らす。僕は腕立て伏せをしながら、人間は筋肉が無ければ動くことができないのだな、と不意に思う。ありがとう筋肉、と考えてしまってひとりでおかしくなって笑ってしまう。眼薬は開封後三ヵ月で使い切るのがいいらしい。川で事故が起きる。僕は眠れなくなる。高田馬場のミカドがインタビューされる。過労死が起きる。ZARAが世界で300店舗を閉鎖する。僕は「コンプレックス商材」という言葉を知る。コンプレックス商材。その言葉を見ただけで色々なことを納得する。たしかにそうだな、コンプレックス商材。それらが存在することはおそらく何の問題もないと思う。しかしこういうことだ。たとえば僕に子供がいるとして、彼が「あのゲームを持ってないと友達に仲間外れにされるんだよ」って言ったら、僕はすごく悲しい。とてもとても悲しい。そのとき僕は人間全体が悲しい。コンプレックス商材の、主に広告についての話だ。怪獣のバラードの話でもある。

 友人の新しい家の居間のテーブルの上に、伝説の剣が置いてある。僕はそれを見てとても嬉しい。とてもとても嬉しい。それは柔らかいラバーで出来ている。刃は途中で折れている。鍔は金ぴかで宝石もついている。百均で買ったのだと友人はいう。そんなことは、些細なことだった。大事なのはこの伝説の剣を友人の息子さんが使っていることだ。そして使い尽くしてへし折ってしまうほどだということだ。僕は魔法の剣を持っていた。お店で売っている立派なものではなく、棒きれにガムテープを巻いて、マジックで魔方陣を描き込んだものだ。その魔法の剣は魔方陣グルグルのニケが持っていた剣(たしかほしくずの剣という名前だった)をモデルにして作った。見た目からして全然別物だったけれど、すごく気に入っていた。魔法の剣を持って家の周りを走り回り、何者かと戦って、勝った。(もし負けていたら僕はここにはいない)
 ひとりで遊んでもまったく面白くなく、むしろ寂しさが倍増した。けれどそれも含めて剣なのだった。友人の息子さんの剣は折れている。それは何者かと戦っている証拠だった。僕はそういうのが好きなのだ。何かを作っている人のことが。何かを想像している人のことが。巧拙は関係なく、多寡も関係ない。折れた伝説の剣は、それだけで芸術作品だった。

 住民税を支払う。散髪をする。街角にパトカーが二台停まっていて、男性が警官に囲まれている。気温は31度。水道管が破裂し茨城県で1万3000世帯の断水が起きる。ガンダムの武器が盗まれ、タンクローリーが爆発する。嫌な上司が異動したので酒の量が減ったよ、と上司が笑う。それはとてもいいことだった。上司にとっても、嫌な上司にとっても。終電まで残り一時間の神保町でうどんを食べる。冷たい温玉ぶっかけうどんは夏の夜の神保町にぴったりだった。頭の中で花火が上がる。電車の隣に座った少年が読んでいた文庫本に、かかしのマークが描かれている。オーデュボンだ、とすぐに分かって僕はなんだかほこらしい。少年が文芸を支えている。

 アウトレットモールで買い物をする。ひどくくたびれた。姉と姉の友人にアンガス種の黒毛牛100%ハンバーグをご馳走する。ステーキをそのまま砕いたような、しっかりと肉の味のするハンバーグだ。香辛料もほとんど使われていない。姉と姉の友人は疲れ知らずで活発に動き回っている。僕はめまいがするくらい疲れたのでベンチに座って本を読んでいた。死についての本だった。アウトレットモールで読むようなものではなかった。モールには死を連想させるようなものはひとつもなかった。雑踏があった。笑い声や、BGMや、アナウンスがあった。人の気配があった。僕はアウトレットモールに少しもなじんでいなかった。死んだようにくたびれて死についての本を読んでいただけだ。でもそれは案外心地よかった。帰り道はタクシーが通らなかったので駅まで真っ暗な道を歩いた。木が空を覆っている夜の道には騒がしい虫の声が響いている。故郷とよく似ている。林を抜けると、遠くに巨大なマンションがそびえている。白い、無表情な、壁のようなマンションだ。何か、どうしようもなく強いものから身を守ろうとして人は壁を作る。

 夢を見た。
 僕は子供で、実家の周りを歩いていた。家の裏のなんでもないスペースに見慣れないものがある。道路標識が立っているのだった。青い地に、白い矢印が一本。家の裏には道路などないし、人がひとり通れるくらいの細い空間しかない。すごく不思議な感じがした。こんなところに標識なんてあったかなと思う。そこで目が覚める。
 目覚めると午後三時を少し過ぎていた。面白い夢を見たなと思った。ある少年が森の中に伸びる小道をみつける。そこには道路標識が立っている。僕が夢で見た「直進」のマークだ。少年は小道を直進する。標識はずっと奥まで等間隔に並んでいる。道はどんどん荒れ果てる。木漏れ日は鬱蒼とした枝に遮られ周囲は夜のように暗い。どこかで鳥が奇妙に鳴いている。少年は好奇心のままに進んでいく。道はフェンスに遮られてしまう。この先通行止めと書いてある。けれどフェンスの奥には直進のマークが続いていた。少年はフェンスをよじ登って越える。道はどんどん暗くなる。少年は不安だ。直進のマークがついに途切れ、道はふつりと途切れる。枝や葉の散らばる森が見渡す限り続くだけなのだ。少年はやっと家に帰れると思う。道の終わりを見て少し満足もした。帰宅するために振り返ると、直進の標識の裏に別な標識がついているのに気づく。青い背景に、背の高い帽子をかぶった男性と、小さな子供が描かれている。男性と子供は手を繋いでいる。まるで男が子供をどこかへ連れ去ろうとしているように見えた。少年の手に、冷たい手が触れる。
 というお話を考えた。
  
 小説を読み終える。町にサイレンが鳴り響く。和歌山を模した庭園を歩く。都会の街の中に巨大な池と山があり、茶屋があり、そこでは写真モデルがカメラ小僧と撮影をし、学生の集団が現れ、外国人観光客が現れ、鏡のように凪いだ水面にはビルが映っていたりする。不思議な場所だった。花火大会の8割が中止になる。読書は積極的に肯定され続けるべきだなあと不意に考える。焼き肉屋でO157が検出される。美しさと汚さについて考える。ワインを飲みすぎて腹を下す。エッセイを読み終える。友人を笑わせるためにYoutubeに動画を上げる。オンラインで映画の同時視聴をしてみる。スコットランドで刃物を振り回す男が現れる。インドに激しい雷が落ちる。バイクをあげるよと先輩は言う。雨がしとしと降り続ける。東京の人はもう、ほとんど手帳型のスマホケースを使っていないのではないかと不意に思う。グミを食べていたら銀歯が取れる。

 4000円の靴下を履いて家を出る。期日前投票をする。歯医者で銀歯を入れてもらう。動画を2本撮る。定額給付金が振り込まれる。バスを降りると映画の上映時間の10分前だった。慌ててパン屋でホットドッグとフレンチトーストを買う。(朝から何も食べていなかった)
 エスカレーターに乗って最上階の映画館に向かう。広いロビーにはおばあちゃんが二人と、彼女たちに何かを説明している係の人がひとりいるだけで、本当に静かだった。ジム・ジャームッシュの『デッドドントダイ』のチケットを買ってもぎりの係の人に検温してもらう。上映室に入って始まる前に食べようと思っていたパンを取り出すことは僕にはできなかった。上映室は衣擦れひとつ聞こえないほど静まり返っていたし、僕はそもそも映画館でものを食べるのが好きではない。たとえ空腹でも我慢しようと考えた。映画館を出てフードコートで急いでパンを食べ、歩いて帰宅する。気温は28℃。僕は最近、自分は何もしていないように感じていた。何もしていない。でもどうだろうか。僕は本当に何もしていないのだろうか。帰宅したら文章を書こうと思った。僕はそれを楽しみにしていた。45℃のお風呂に入った。麦茶を飲んだ。スマートフォンのメモ帳を見ながら文章を書き始めた。なんだかものごとがごちゃごちゃしていて、上手く整理できないようだった。でも僕には、案外それが心地よい。

 

コンコンブル・ファルシについての無意味な文章

 言葉は言葉を呼ぶ。けれど言葉はあまりイメージを呼ばない。イメージを呼ぶのはイメージだった、と僕は思い出した。一日をぼうっと過ごしていると、言葉を持たないイメージがくっきりと脳に浮かび上がることがある。それはすごくどうでもいいことだ。そういえば僕はすごくどうでもいいことが書きたかったんだった。ただ無意味なことをだった。しかしただ無意味という文章を書くのも難しい。何事にせよ透徹するには細心の注意が必要なのだ。すごく無意味なものってたとえばどんなものだろうかと考えてみると、それは意味の分からない前衛的な絵画のようなものだと思った。すごく意味の分からない絵画を描くのはとても難しいし、普通は描こうとは思わない。すごく意味のわからない絵画が無意味なのは、その絵画にまだ意味が持たされていないからだ。そしてそれは無価値であることとは全然違う。無意味であることと無価値であることは必ずしもイコールではない。無意味だけど良いものがあり、無意味で悪いものがある。というただそれだけのことで、結局のところ価値があるかないかという視点すらも僕の書きたいことの本質ではなかったんだった。無意味だけれど楽しいものが書きたいのだ、と僕は思った。それは僕にとってすら無意味でなければならなかった。そして僕にとって無意味でありながら価値のあるものでなければならないのだった。と考えた時、僕はそういう形の文章をどこかで見たことがあるのだろうか? 一体何をモデルにしてそれを書きたいと考えているのか。自らの中から無意味の鋳型を取り出そうとするとき、僕は相変わらずそれがうまくできない。うまくゆくことがない。それは僕が抱えているものが良い鋳型・あるいは悪い鋳型であり、無意味な鋳型はかつてたしかにどこかで見たことがあるかもしれないにせよ、無意味であるがゆえに失念しているに違いない。意味が分からないものについて覚えておくことはやはり難しいことのように思われた。だから僕は僕の中から無意味を取り出すことを放棄しなければならない。僕が抱えている無意味らしき概念にはすでに僕がなんらかの意味を与えている可能性が高い。僕は僕以外の外部から無意味を調達し、それを無意味のまま書くことにする。そしてここに一冊の調理用語辞典がある。調理用語辞典というのは読んで字のごとくお料理・調理に使用する用語を集めて編んだ辞典だ。僕は非常にお料理・調理にうといからおそらくこの本の中には僕にとっての意味不明があるはずなのだ。ヌワンワンという言葉を知っているだろうか? 僕はかつてこの言葉を知らなかった。それは僕にとって無意味だった。僕は調理用語辞典でその言葉を見かけ、そして意味が分からない! と思った。無意味を見つけたと思った。しかしなんということであろう用語の意味はきちんとあたりまえに簡便・かつ丁寧に書いてあった。そして僕は知的好奇心のままにそれを読んでしまった。僕にとってもうヌワンワンは無意味ではなくなってしまった。僕はこの世界から無意味をひとつ喪失した。無意味の喪失自体に価値があったかどうか、それは今の僕にはまだわからない。調理用語辞典から無意味を調達するのは僕には無理だと思った。僕はつい意味を求める。しかしもう一度チャンスを与えよう。一度であきらめてしまっては、あまりにも調理用語辞典が無価値すぎる。僕は再びページをめくる。今度は注意深く。オレンジの薄暗い照明の下で。意味を取得しないように無意味をさがす。そして見つけた。今度こそ無意味な言葉をみつけた。コンコンブル・ファルシ。なんだ。なんだコンコンブル・ファルシって。すごくいい。まったく意味がわからない。胸が高鳴ってきた。コンコンブル・ファルシの意味がすごく見たくなった。僕はあまり我慢をしないたちなので意味を見てしまった。コンコンブル・ファルシ=スタッフドキューカンバーと書いてある。ますます余計に意味がわからないけれど、うすいもやの向こうになんとなく意味の形が見えるか見えないかくらいの感じにはなってしまった。だってキューカンバーはキュウリだということを僕は知っているから。そしてそのキューカンバーはスタッフされているということが言葉から推測されてしまったから。まだかろうじてコンコンブル・ファルシは無意味を保ってはいるが、それはレベルの低い無意味になってしまっている。でも僕はなんとか無意味を手に入れたといっていいだろう。僕はこれからコンコンブル・ファルシという自分にとって無意味な言葉について書こうと思う。無意味な言葉について書くとき、僕から生まれるのは無意味だと考えたからだ。そして生まれ出でた無意味が僕にとって面白いと思われるのならこの文章はすなわち無意味・かつ面白い文章だったということになる。すくなくとも僕にとっては。まずは僕とコンコンブル・ファルシの関係について書きたい。僕とコンコンブル・ファルシは無関係だ。僕はコンコンブル・ファルシを見たことがない。そして聞いたこともない。お父さんもお母さんも学校の先生も、今まで読んできた本も見てきたインターネットも僕にコンコンブル・ファルシを教えてくれたことは一度もない。コンコンブル・ファルシを僕は好きでも嫌いでもない。そして僕はこれからもコンコンブル・ファルシを好きになったり嫌いになったりもしないだろう。つまるところ先ほどから主張している通り僕とコンコンブル・ファルシは無関係だった。コンコンブル・ファルシが僕の目の前に現れたら僕はそれをコンコンブル・ファルシだと認識することはないだろう。何しろ僕はコンコンブル・ファルシという言葉を知ってはいても、コンコンブル・ファルシがどんな形で、どんな音で、どんなにおいで、どんな触り心地かを知らないからだ。ただとてもうっすらとした概念だけがあり、それ以外は僕はコンコンブル・ファルシのどんな意味も持ってはいない。だから僕はコンコンブル・ファルシを信じてはいない。そして疑ってもいない。コンコンブル・ファルシを狙ってもいない。またコンコンブル・ファルシに狙われてもいない。僕はコンコンブル・ファルシに関するテストを受けたことがない。そしてコンコンブル・ファルシに関するテストが0点でも特に困ったことにはならない。僕はコンコンブル・ファルシを助手席に乗せてドライブをしない。またコンコンブル・ファルシと南の島にも行ったりしない。コンコンブル・ファルシは猫に似ていない。そしてコンコンブル・ファルシは僕があたためたばかりのピザをあやまって床に落としてしまっても声を荒げたりしない。コンコンブル・ファルシは夏の終わりに寂しい鳴き声を上げない。またコンコンブル・ファルシは雪が降るとはしゃいで庭を駆けまわったりもしないだろう。僕はコンコンブル・ファルシと初めてあったら、きちんと挨拶をすることができるだろうか? 僕はコンコンブル・ファルシが自己紹介を始めた時、コンコンブル・ファルシの名前をこの耳ではじめて聞いた時、その時こそ僕は意味以上の価値を見出す可能性がわずかにある。僕はこれがコンコンブル・ファルシなのだ! と気が付くだろう。そして次の刹那スタッフドキューカンバーに思いを馳せているかもしれない。僕はコンコンブル・ファルシを通してスタッフドキューカンバーを知る。そしてスタッフドキューカンバーとコンコンブル・ファルシが僕の中ではっきりと分かちがたく結びついたとき、僕はコンコンブル・ファルシ=スタッフドキューカンバーに意味を見出し、そしてコンコンブル・ファルシ=スタッフドキューカンバーを面白く書けなくなる。僕はコンコンブル・ファルシの歌声に合わせて手拍子をしない。けれどコンコンブル・ファルシは、冬の間は三本ある首の一本だけを左の脇の下に突っ込んで温めているのかもしれない。そして僕は、僕の知らないコンコンブル・ファルシのことを、何も知らないくせに、もう好きになり始めている。
 だからこの文章はおしまいなのである。

 

街角ダンス

 非常にたびたび街角で、誰も見たことがないステップを踏みます。

 大した用事ではないのだけれど、七月の記念のために田無に向かう。
 地下鉄を乗り継いで都営大江戸線へ。
 大江戸線の窓も、ほかの路線と同様に開いている。換気のためだ。
 しかし僕がよく使う路線と大江戸線では、大きな違いがあった。
 窓の外からとんでもない轟音が響いてくるのだ。金属が軋む激しい音と地響きで鼓膜が三枚ほど破れた。
 窓を開けているから余計にやかましいのだと予想がたつが、それにしても僕以外の乗客は全く何の異変もないような顔でスマホなどいじっていたりするのには少し笑う。
 人はどんなものにも慣れてしまうから頼もしい。
 世界の終りがきたらこの100倍はうるさいのだろうなと思いながら窓の外を眺める。
 トンネルの壁が窓のすぐそこまで迫ってきて、車体が傾いているかのような、不思議な気分にさせられた。
 おそらく大江戸線のトンネルは狭いのだ。だから音もよく響くし、世界が迫ってくるような感じがする。
 僕はそれがすこし楽しい。

 新宿西口から西武新宿へ歩き、田無行きの電車に乗る。
 なんとなくこぢんまりしたかわいい電車で、乗客はそれほど多くなかった。
 本を読んでいるうちに田無に到着する。
 携帯で地図を見ながら目的地に向かうと、シャッターが下りている。
 どう見ても営業をしていない。改めてネットで調べると禍関係ですらなく、ごく通常の定休日だった。
 僕は一体知らない町で、なんで閉ざされたシャッターの前で、立ち尽くしているの。妖怪シャッター男だろうか。
 愉快になり、もういっそ観光をしようと決める。
 地図を頼りに総持寺に向かう。総持寺の巨大な門はこれ以上なく固く閉ざされていた。立ち入りを禁じている。なるほど今日はこういう日なんだなと納得をした。それならそれでやりようもある。
 田無神社に向かうと、今度は開かれている。やってるんかいと思いつつ石の鳥居をくぐってお参りをする。神社音楽が静かに流れていた。僕は神様の存在を心から信じてはいないけれど、マナーは知っている。二礼二拍手一礼である。心の中で神様に語りかける。あー神様、神様僕は、すみませんちゃんとお願いを考えていませんでした、今ちゃんと考えます、神様、うーん僕に……。
 レストランのウェイトレスの人ですら怒りそうなしどろもどろを神は許してくれるのだろうか。祈る前に心の雑音を消す修行をした方がよいかもしれない。

 田無の駅前に戻り、そのまま帰ろうかと思ったけれど気が向いたので駅前のデパートに入ってみる。
 といって特に用もないし、欲しいものがあるわけでもない。となるともう行く場所は書店である。新しい書店というのはそれだけで心躍るもの。散々うろついてからデパートの出口に向かった。
 出口のガラス張りの自動ドアの向こうに、親子がいた。
 お母さんと少年が二人。少年はきゃっきゃと笑いながらお母さんの周りをぐるぐる回っている。
 僕が自動ドアを通ろうとすると、少年のひとりも駆け込んで来て、ドアの前で急に立ち止まる。
 少年が止まったので僕も止まる。
 少年が右足を前に出す。僕は左によける。少年が後ろに一歩下がる。僕が左足を一歩出す。少年が右足を出す。僕が左足を引っ込める。少年が後ろに下がる。僕が前のめりになる。少年が右足を前に出す。
 少年と僕の激しい攻防の後ろで、お母さんが野球のセカンドみたいな中腰で身体を前後に揺らして少年を捕まえるべきか否か迷い続けている。
 少年のテンションがみるみる上がっていくのがわかる。もう満面の笑みで今にも叫び出しそうだ。僕もその顔を見てしまってもう大笑いしそうだ。
 お母さんが動いた。もう限界だと思ったのか、ラグビー部のタックルもかくやというほどの低空でとびかかったお母さんは両手で少年を捕らえる。少年はあきゃあと猿のような声を出してだらだらと脱力して溶けてしまう。
 僕とお母さんはマスクで隠されていない目で1秒見つめ合い、1秒で珍妙なダンスを俯瞰し、評価を下す。われわれ人間は不完全な生き物で、時におかしなことをしてしまう。そしてそれは笑える。
「すみません」とどちらともなく笑いながら言い合って、僕は家族の横をすっと抜けて駅に向かう。
 変なことになったのに、すごく爽快な気分だった。
 あの街角のダンスのおかげで、中途半端な一日が、とてもきれいにまとまった気がした。

 

心配性

 傘をたたんで、バスに乗った。
 乗客は三人だった。右後方のひとり席に老人。最後部の五人掛けの席に小学生とおぼしき女の子が二人。
 僕は、床がタイヤの形に盛り上がっているひとり用の席に座った。
 ポケットから携帯を出して、森見さんのエッセイを読みかける。
 と、後ろの席から騒がしい声だ。
 女の子がおしゃべりをしている。
「ああ気持ちわるい」どちらかが言った。「バス無理」
 窓に雨滴がついて流れる。灰色の光を浴びて、外の世界は滲んで見える。
 車内には湿った空気が満ちていて、息苦しく感じた。
 僕も子供の頃は、乗り物酔いになったことがあった。
 一番ひどかったのは親戚のおじさんの漁船に乗せてもらった時だ。
 船のへりにつかまって青黒くうねる海面に吐いた。
 鞄の中にビニール製のショップバッグがあったはずだ、と思いついたあと、自分はそれをどうするつもりなのかと自問する。
 知らない男の人にエチケット袋を手渡される女の子の気持ち? ありがとうなのか、気持ち悪いなのか、僕には想像もつかない。人間のゲロなんて見慣れているけれど、見られ慣れていない人にとっては恥ずかしいものでもある。しかし、バスのシートに汚物をまき散らしてしまうほうが傷つくんではないのか。
 5秒でそこまで考える。そして深呼吸をする。
 女の子は冗談を言っているだけで、実際には吐いたりはしない。
 僕がただ心配性なだけだ。これは、杞憂なのだ。だいたい誰も傷つかないし、たいがいみんな大丈夫。
 森見さんのエッセイに再び集中しかけた時、
「ほんとにダメなんだけど、だってあたし毎回吐くんだもん」
 僕は陽気なアメリカ人だったらよかったなあ! と思う。
『ヘイガール! この上等なエチケット袋にファッキンゲロをぶちまけな。俺も昔はよく吐いたよ。バドワイザーを飲みすぎてね! ハッハー! 良いことをひとつ教えてあげるよ。飲みすぎると人は死ぬけど、乗り物酔いで死んだやつはいない。いつか君もバスに慣れるよ。じゃあ俺はジョンとアメフト見に行くからさ、グッド・バイ!』
 そういうことを英語でまくしたてて、降りるはずじゃなかったバス停で、さっさと降りてしまうのだ。
 そんなことを考えているうちに、乗客はどんどん増え、女の子達の声も聞こえなくなった。
 とあるバス停で二人は無事に降りる。
 やはり杞憂だったのだ。
 僕は気にしすぎる。無駄な心配のせいで、ぐったり疲れてしまう。
 もう周りで何があっても気にしないようにしようと思う。
 森見さんのエッセイに目を向けると、僕の席の近くに立ったカップルの女性の方が、ぼそりと呟いた。
「あたし絶対糖尿病になると思う」
 まったく本が頭に入ってこない。
 僕は陽気な医者だったらよかったなあ! とも思うし、女性にひとつ良いことを教えてあげたい気もする。
『それは杞憂ってやつだよ。だいたい物事はうまくいくものだから、心配しなくていいんだよ』

 

 

適当

 下手の考え休むに似たりというので、少し休みます。

 自分ばかり仕事をしているような、なんだか仲間たちが何もやってくれないような、そんな気持ちになることがたまにあって、そういう時は決まって忙しい時だ。
 当たり前のことかもしれないけれど――暇な時には仕事がないのだから、僕も、仲間も、何もやっていないのは当然だった。だから僕が「僕だけが忙しくないか?」と感じるとき、僕は忙しい。
 そして忙しい時には、当たり前のことかもしれないけれど――疲れている。
 疲れて視野狭窄を起こしている。
 周囲に目を向けられないから、ひとりで何でもやらなければという思いが強くなり、仕事を抱え込みさらに忙しくなる。
 そうして、大した仕事もしていないのに、すっかりくたびれて電車に揺られていると、今度はひとり反省会だ。
 あの時はああ言えば良かった、とか。
 あのメールは書き方がダサかった、とか。
 もっとスマートに仕事ができるところだったのに、とか。
 𠮟られたわけでも、ばかにされたわけでもないのに、ひとりで真っ暗な螺旋階段を下りていく。
 帰ってきた視野狭窄2ザ・ムービーが始まる。
 当たり前のことかもしれないけれど――こういうとき、疲れているのである。
 疲れているのだ! と、気が付くことができたら、それだけで大したものだと思う。
 本当に疲れている時には、疲れていることにすら気が付かないのだからね。
 帰宅して、ラジオでクラシック音楽を聴きながら、この文章を書き始め、僕にはもっと柔軟な、正しい意味での適当さが必要だなあと考えた。
 それは雑であるということではなく、おざなりであるということでもなく、字義通りの適当さだ。
 

てきとう【適当】

1.ある性質・状態・要求などに、ちょうどよく合うこと。ふさわしいこと。

Oxford Languagesの定義より

 

 これは要するに、100円のガムを買う時、100円ぴったり出すことだった。
 当たり前のことかもしれないけれど――90円じゃ足りないし、110円では多すぎるのだ。

 という感じで終わらせていいかなと思ったけれど、ふと別の適当さが思い浮かんだ。
 100円のガムに100円を出すのは、赤子と手をつなぐように簡単だけれど、5メートル先のホールカップにゴルフボールを入れる適当さは、これは至難の技の適当さだった。
 僕はゴルフをしたことがないので、この適当さには対応ができない。
 こういう時にはどうすればいいのか、何個か考えてみた。

1、何回も打たせてもらう
2、ゴルフの上手い人にやってもらう
3、ゴルフボールを手に持ってホールカップの5センチ前に置かせてもらう
4、ホールカップの直径を1mにさせてもらう
5、ゴルフをやめる

 現状の自分ではどうしようもない問題が立ちはだかった時、それが僕にしかできないことなら、その時には一生懸命頑張るのが適当なのだろう。
 しかし、僕の仕事ではそういうことはあまり起きない。
 僕は僕以外の仲間と互換性があるので、みんなが楽になるように、得意な業務をやったり、成功率が上がるように手順を見直したり、あまりにも失敗が多いようなら、ゴルフじゃなくてバスケットにしてみるとかすればいいのかもしれないな。

 今日は適当に休めたので、明日も適当を頑張ろうと思う。