Yomoyama

箱庭フランケン

 壊れたパソコンを修理して使っている。
 壊れる前にパソコンで使用していたデータは、摘出後に外部記憶装置へ移動させたから、修理後のパソコンはおどろきの白さで、デスクトップ画面にはアイコンが三つしかないことにはモンゴルの草原みたいな自由があった。新しいパソコンを買った時ってこういう気持ちだったかもしれない、と新しくもないパソコンで思うのはなんだかわらっちゃう。
 壊れているものはもう壊せないからという動機で修理ができるようになって、それが成功した時にどう扱うべきかなんて当然、修理計画には一文字も含まれていない。滑稽にもその事実が本質的に場面で動いてきた僕にぴったりの表現だった。持て余してしまったわけだけれど、少し手をかければ現在の環境をよりよくすることができる性質を死蔵しておくことが苦手なので、積極的に使って壊れることが好きだし、おそらく道具もそれを期待していると考えているので(博物館に飾られるより使ってもらったほうがよい)、技術的な関心を少し加えて、経験および利便性の向上を主目的として再び改造を行うこととして、新たな装備をフォートヨドバシにて購う。帰宅後、机の上を真っさらに片し、簡易作業台を用意したのちパーソナルコンの改造作業を行った。

 

 

 

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初期のファン

 まっすぐパソコンの中を撮ると、なんだか都市みたいに見えて、とても好きだなと思う。今回の改造では、右上に映っている黒いプロペラを、もっとパワーアップしたものに付け替えた。付け替えてパワーアップさせるという概念について考えてみると、はるか昔の思い出がよみがえって、ミニ四駆だなあと思ってしまう。それはアーマードコアでもドラクエでも、ファッションでもバイクでもなんでもいいんだけれど、新しいものを装備して何かが少し変わる、強くなる、っていうインスタントだけれど実感できる効果って安心だし、ただの欲望なんだけれど、それはシンプルにおもしろい。

 

 

 

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都市

 

 

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改造後のファン

 大きいプロペラに変えようと思い、本来のスリムなパソコンのサイズでは入りきらないほどの、どでかプロペラを買ってきて、無事に装備させることができた。真上からの写真ではどうなっているのかよくわからないので、横からも撮ってみた。

 

 

 

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ビルみたい

 町の景色がいっぺんに近代化して、グロテスクな異形の塔が生まれた。町の中にある不自然に大きな建物が好きで、遠くに見えているゴミ焼却施設の高い煙突や、巨人の家の玄関みたいな水門や、雲のかかった富士山や、空中に浮かんでいるザレムや、軌道エレベーターや、そういうもののことを考えていると気が遠くなってきて、いくつになってもおどろいたり、おおきいなあと思ったりするし、したい。僕の故郷にもある日突然謎のガラス張りのタワーができたことがあって、長い階段が塔の上まで続いていて上ることができた。1年くらいは大人たちも物珍しそうに上ったりしていたけれど、やがて誰も上らなくなり、子供たちも近寄らなくなった。塔の一番上から見える景色は鄙びた我が町の漁港と、青黒い海ばかりで、特別に見晴らしがよいわけでもなく、塩気の強い風がびょうびょうと吹き付けてきて、ひどく寂しい気持ちになった。そしておそらく僕はそういう無意味に片足を突っ込んで終わった何かもすきだ。

 パソコンはフランケンシュタイン度を増して、より意味のわからないジャンクみたいになって、それでも以前の、買ったばかりの頃よりずっとパワーアップしている感じは人間の肉体を捨てて闇の力を手に入れた人みたいでいい。ある日突然壊れ、五年もほこりを被ったあとなのだから、愛着もひとしおになってくる。また面白いアイデアが生まれたら箱庭に手を入れたい。

 

Yu-rindou

 アキバヨドバシカメラの7階の本屋さんに足を運ぶと、入り口前の話題本展示ブースに小林先生の新しい小説が置いてあり、「あっすてき」と思って近寄ると、ちょうど前を歩いていた眼鏡の女性も足を止めて本のパッケージをじっと見ている。
 内心びっくりしていたのは、小林先生の本を僕以外の人間が読むのかという思いがあったからだし(好きだという人に会ったことがない)、おまえさんも好きなのかいあの超論理的会話が、という想像があったからだけれども、少なくともその人がいる間は隣に近寄って手に取るなどということは邪魔にしているみたいに感じられたら嫌だなと思ったので、すぐ隣の本を見ていたのだけれど、彼女が歩き出したので本を手に取り、次は小説の島の新刊コーナーに向かったらまた同じ彼女が立ち止まって小説本を見ており、今度こそ「うっ」となる。そんな気は毛頭無いにせよ付け回しているようではないか。幸い彼女はすぐに歩き出したので新刊コーナーの手書きポップや作家さん直筆のメッセージなどを眺め、「この作家さんは字が汚くて好感が持てるぞ」などと思いながら漫画の島に向かうと、またまったく同じあの彼女が棚の前に立っていて、その時気が付いた。回遊パターンが同じ人だこれ!
 みんなさんはどうやって本屋さんを見ているのかよくわからないけれど、僕はよく行く本屋だと見て回る棚の順番が自然と決まっていることが多く、それ以外の順番で回るとなんとなく気持ちがよくないということがある。たぶんルーチン化してあるほうが違いに気づきやすいからなのではないかと思う。新刊が出たけれどスペース的に売り出しにくいものが棚に差してあるだけの状態だと、前もって作家の札の位置が頭に入っていたほうが早く見つかる。
 同じ回遊パターンを持つ人がいると、なんの関係も、なんの根拠もないのに話してみたくなる。おじさんでもおこさまでもそれは変わらなくて、そこに意味なんかいらなくてただ一緒でおもしろいねってそういうことが言いたい。
 本を二冊買って本屋を出た。
 今日の天気は晴れで、春みたいな陽気だった。
 あまりに日差しがまぶしいので、裏通りを歩いて帰った。
 鞄の中に読んでない本が二冊。
 それがとてもうれしい。

 

居場所と再生

 居場所というのは探すものではない作るものだ、とどこかで読んだか聞いたかして甚だ曖昧であるのだが、トニカク居場所は作るものらしく、創作物であるらしいのだが、己が身を振り返ってみて仮住まいでも居場所というものを与えられ、そこに仮初の居場所を作ることは案外得意なことのひとつだ。
 そこにたったひとつ自分のものが置いてあれば、僕はなんとなくそこが僕の居場所のような気がする、延長自我が君の巣だと告げている。たとえばただのシャープペンシルがペン立てに刺さっている、そこに僕のシャープペンシルが、谷川俊太郎さんが詩に書いたように他の何物にも重ならずに存在していることで安心した。座布団などなら更に居場所の重みと面積は広がるだろうし、それは結局のところ究極的に僕が所有している物質がとても儚いものだとしても、精神と紐付いている物が空間を専有することで精神もまたそこに居場所を築いていたから、秘密基地よりもっとミニマルな長さ10センチの居場所こそが物質世界に精神を縛り付ける錨ともなった。ライナスなら毛布だし、逆に月10万円支払ってよい家を借りたとしてもそこに錨を打てないのならあまりにも居場所がない。

 自分の部屋の中でどこに一番長く滞在しているかと考えるとやはりベッドの上が一番だった。次点は机の前だったからか、そこにいるのが考えるまでもなく好きで、唯一無二であった。机の前に座って何かやったり寝たりすることがおそらく一番好きだった。ということが分かってから長い間机の周りを改造してきて、気がつけば物が溢れていた。積読本を20冊積み上げてどでかいパソコンとモニタとキーボードとマウスと外付けHDDと仕事上の書類と新しく買ってきた紙カバー付きの文庫本と携帯と鍵とフリスクフラッシュメモリと知恵の輪とむぎ茶の入ったコップとの集合体で自己のラスボスみたいになっていた。あまりにもたくさんの自分の居場所アンカーがぎっちぎちに空間に突き刺さって認識能力が著しく低下しぼうっとしながらビートルズを聞いたりチベット仏教マントラを聞いたりvtuberを見たりしながらブログを書いたり肩のストレッチをしたり寝たりしていた。それがいつしか重荷になって自分で満たされていた空間に入りきらなくなった自分で溢れた。毛布一枚あればよかったんじゃんと考えてこの間模様替えをした際、机の上を猛烈な勢いでシンプルに改造した。

 

 

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見晴らし

 物質が数を減らし目に見える錨からも解き放たれて見晴らしは上等帆を張って出航とりかじいっぱいフォックス2ブルズアイである。本来ならば物質などは本当にひとつもいらないのかもしれないし、人生は旅だから"貴重品だけ持って段差に気をつけて"でいいのだけれど、僕はまだまだ未熟なねんねの尻の青い果実であった――本当の居場所というものは心にあるものだそれはチルチルとミチルが教えてくれたあの青いメタファーで。
 ここまでが居場所の話で、ここから全く関係のない再生の話になるから(ではどうしてひとつの記事でお話が接続されているのかというと、それは文章ではなく写真で繋がっているから)、インターミッションを自在に挟んで仮想膝の屈伸などをしたのち書き進めるが、僕の家には壊れたパソコンが3個ある。

 壊れたパソコンを人々はどうするのかまったく知らないし聞いたこともないけれど、おそらく正しくはお店にお金を払ってデータをきれいに消去してもらって廃棄したりするのだろうか、リサイクル料金などを支払ってごみやさんに引き取ってもらったりするのだろう、それは想像の範疇を出ないけれど、だからこそ己は今まで不要のパソコンをどうして処理してきたのか全く記憶になく、だから固く冷たい墓標のようにリビングのテレヴィジョンと本棚の暗い隙間で彼らは肩を並べて青い顔をして立ち尽くしていた。
 いつか捨てよう、あるいは治そうと夢のようなことばかり考えていたらもう埃をかぶって彼らは全体的に半透明になっていた。その中の一台は、買ってから2年ほどですぐ壊れてしまったもので、当時でもまあまあのスペックだったので手放すのも悔しくて毎晩泣き暮らしていたし、それは当時書いていたブログにも書いたくらいで、へんな絵やへんな文やへんな音楽や、自由時間の全てを費やして作ってきたものの集大成だったからがっかりしたけれども何年も経って喉元過ぎ熱さを忘れていたんだけれど今日、成長した僕がいて、ふと治せるのではないかと思い、調べながら作業をしていたら、治ったのである。
 パソコンの故障というのは生物の死と同じくらい不可逆的な概念だと思いこんでいた。データは失われハードは爆発し残骸だけが産廃に進化してもう何も生み出さなくなるんだと思いこんでいた。思い込みであった。パソコンは生物ではないから死なないのだった。死んでもフランケンシュタインみたいにして生き返らせることができるのだと分かった。よいパソコンAはBIOSは起動するしwin10がシステム修復をしようとする元気もあるからおそらく壊れているのはOSでハードは全部生きているんだと検討をつけて試しに破裂音がして動作を停止したパソコンBのHDDを接続してみるとやはり途中まで起動はするから今度こそハードに問題があると決めつけてSSDと外付けハードディスクドライブケース(僕はこんなに便利な道具があることすら知らなかった)と大容量のフラッシュメモリをアマゾンで購入し生きているパソコンでwin10をフラッシュメモリにインストール、パソコンAのデータはHDDケースを使ってサルベージしてからパソコンAに相性も調べなかったSSDSATAで繋げてフラッシュメモリを刺したらUXINDOUZUをインストールし始めたので、その時僕は本当にパソコンがただの機械で、しかも結構がさつなやつなんだと知った。こんなの精密機械でもなんでもないんだと思った。ガンダムの右腕にザクⅡの右腕を刺しても動くんだものな。


 

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廃墟



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世紀末

 ガムテープで部品が留めてあるところは男の子はいつの時代も好きではないですか。時限爆弾みたいなサイバーパンクみたいな汚いSFの感じで胸が締め付けられたのでもうブーツのポストカードとか貼ればいいんでしょと思って少しおしゃれにしたらフランケンシュタインのことがだいすきになる。
 きちんと動いて動画も再生できるのを確認してから、不意にサルベージした過去のデータを確認すると、そこにある懐かしい名前の数々が、そこにある痛ましくも微笑ましい言葉の数々が、時化た海原を延々進み続けた航海と後悔を公開してきた更改しなかった悲しい自我の再生が、それでも僕の座標を世界地図の上にぴかぴか点滅させていた。

  

ありがとうの気持ち

 ブログの記事がを頂きました。
 審査頂いたはてなブログ編集部の方々、ホンダアクセスご担当者様。
 ありがとうございます。
 貴重な賞を頂きまして、大変嬉しいです。

 記事を読んでくださった方々、スターをくださった方々、ブックマークしてくださった方々、ありがとうございます。
 読んでくれている方がいるんだなあと思うと、いつもありがたい気持ちになります。
 とても嬉しいです。

 昔から見てくれている方、友達になって一緒に文章を書いてくれた方、それから今もブログを書いてくれている方々、ありがとうございます。
 変な言い方になるかもしれませんが、出力されたものを摂取することで書く動機を手に入れることもあります。
 本当にひとりだったら書くことを辞めていたかもしれないなあと思うので、いつも本当に助けられています。
 ありがとうございます。

 母。
 生んでくれてありがとうございます。

 本。
 生かしてくれてありがとうございます。

 豆大福。
 おいしくてありがとうございます。

 僕。
 本当に長い間がんばってきましたね。
 めまいがしますね。ありがとうございます。

 普段はあまりありがとうの気持ちを書くことがないので、機会があったらすかさず書くことにしています。
 うれしいことがあったら、ひねくれずに素直に喜びたいなあとも思っていますし、それはとても大事なことだとも考えています。

 文章で賞という名前のつくものをもらうのはこれで4つ目になりました。
 これからもっとがんばろうとおもいました。

 文章で賞という名前はついていないけれど僕を支えている言葉やものをもらうのは、もう数え切れないくらいで、おもしろかったとか、げんきになったとか、そういう言葉がひとつびとつトロフィーみたいになって胸ん中でびかびかに光って、スターも、ブックマークも、同じようにそこに意思を読み取って、なんらかの意思を表明しようと思ってくれることは、勲章のひとつのような気にもなって、友達と作った小説冊子や、とある方に作ってもらった自作小説のアンソロジーは無限のエネルギーの塊のようで、すごく昔に書いた初めてインターネットに載せた文章の、とんでもない恥ずかしさすらも伝導する熱になって、清濁併せ呑んで、光ったり消えたり、彗星のように現れ彗星のように消えたり、急に絵を描いたり、旅に出たり、写真を撮ったり、また書いたり、もうめちゃくちゃで、泣いたり笑ったり怒ったり喜んだりフラットになったりしながら、おそらくこれからもどっかでなんかを作っていくんだと思います。
 それで、作ったものはたぶんほとんどお見せできますので、ほんのすこしでもなんかを感じていただけたら、とてもいいなあと思いますし、熱が伝導していれば、それは僕がそのように受け取ることがあるように、とても最高です。

 これからもよろしくお願いいたします。
 

ありのままの日曜日

 激しい震動が枕の脇から響いてくる。反射的に目を覚ましスマートフォンをひっつかむ。
 知らない番号が表示されていた。氷山に閉じ込められているマンモスくらい知らない。もしかしたら誰かが、とても大事な用で電話をしてきてくれたのかもしれないから、戸惑いも迷いも瞬時に切り捨てて通話ボタンを押す。
「お世話になっておりますわたくし、ししみ様にお得な情報をお伝えしたく」
 電話の向こうの彼は、おそらく本当にお得な情報を教えてくれようとしているんだと思う。通信費用が安くなるとか、そういうことを教えてくれるんだろうと思う。しかし僕は、友人の誕生日プレゼントに消火器を買ってラッピングしたり、変なノートを作ったり、2時間も散歩をしたりするのが好きだから、よく考えたらお得とはあまり関係のないところで生活しているようにも思われたし、どちらかというと無駄なことの方が好きだった。悪あがきが好きだった。
 そして彼は無駄なことも悪あがきも好きではなかった。彼はお得なのが好きなのだ。彼は電話を切った。
 いつか氷山に閉じ込められているマンモスのことを教えてくれる電話がくるのを僕は待っている。

 目覚めてしまったのでカーテンを開けた。よく晴れていた。窓を開けると、すこし冷たいけれど新しい空気が部屋に流れる。遠くのマンションがきらきらと光っていた。鳥が飛んでいそうな青い空だった。
 ノートパソコンを起動してThe BeatlesBlackbirdを聴いた。日曜日の朝がより鮮明になるような、穏やかな曲だ。とても静かだけど、人間を応援している歌でもある。元気になる。
 たまには書類整理をしようと考えた。考えた瞬間、自分はなんて偉いんだろうと思った。しかし日曜日に降り注ぐ朝日を浴びながらThe Beatlesを聴きつつ書類整理とは。このままだとパスタを茹でることになると思ったのでむぎ茶を飲んで文脈をへし折った。
 床に座ってごちゃごちゃに積み上がった書類を右と左に振り分ける。今すぐご確認ください、と書いてある携帯電話の契約会社からのDMなど、何故とっておいたのかよくわからないけれど、とりあえず開封して中を見てみる――最新のスマートフォンが半額で手に入ります、もっとお安いプランがあります。とてもお得だった。朝に電話をかけてくれた彼のことを思い出した。彼らはどうしても僕やあなたに得をさせたい。手紙を出し、電話をかけ、路上でビラを配り、得をさせたい。損をさせたいのではないのだよな。考えてみると、それはずいぶんかわいいことだ。DMを右に振り分けた。
 懐かしい手紙や、僕が新人だったころの仕事の資料、貰い物のステッカーは左に分けた。
 部屋の隅で疲れた牛みたいに眠っていたシュレッダーを引っ張り出す。うっすらとほこりを被っていたので重曹ウェットティッシュできれいにしたあと電源を入れる。右に振り分けておいた紙類を細長い口に入れると、臆病なモルモットみたいにぶるぶる震えて書類を食べつくした。住所氏名の記されていない紙はゴミ袋にそのまま入れた。時刻は正午を回っていて、Blackbirdはもう40回ほど流れていた。残りの書類は後日整理することにして、買い物に出かけることにした。肌が綺麗になるという泥のパックが欲しいのだ。それからタヒさんの新刊も欲しいし、僕専用のスワンボートも欲しい。コナンくんが乗っているスケボーも欲しいし、家庭用の宇宙船、知恵や勇気なども欲しい。欲しいものはたくさんあるけれど、とりあえず今は泥のパックを買うと決めている。

 マックのスマイルが0円であることは周知の事実だけれども、それは0円だけれどもたしかに売り物(サービス)のひとつだから、だから考えたんだけれど、もしあえてスマイルを注文するなら、おそらくなんらかの対価が発生するはずだった。それはお金以外の対価でなければならないから、つまりスマイルを購入するとき、僕自身もスマイルなどを支払わなければ、対等な取引とは言えないのではないかと考えた。でなければスマイルが尽きると思う。
 エッグチーズバーガーセットを食べました。ハンバーガーは普通に美味しく、普通は最強だった。

 ドラッグストアで泥のパックを探したけれど、案外売ってないことを知った。前もってネットで調べていた商品がないどころか、そもそもフェイシャルな美容泥パックが全然なかった。大きなお店でなければ置いていないのだろうか。2店目でようやく一商品だけみつけ、レジに向かうとおばあさまがレジの店員さんに向かって怒鳴っていた。いつになったらマスクが入ってくるの! どこにも全然ないじゃない! 店員さんは一生懸命謝っていた。自分とは関係のない同業他社に在庫がないことも、買い占めを行っている人がいることも、ウイルスが蔓延してしまったことも、すべてを受け止めて笑顔を崩さずに謝っていた。簡単にできることではない。とてもすごいことだった。
 僕はテレビをあまり見ないけれど、きっとニュースやワイドショーでは、マスクが無いということを煽っているんだろうなあと思った。それで不安に思った人達が買いに行くと、実際にマスクがなくて、怒っちゃうんだろうなあ。マスクはつけてても感染はすると思うのだけれど、つけていないと白い目で見られるのだろうし、つけたくてもつけられない状況もあるみたいだ。新コロに関しては比較的症状の軽い人が多いらしいので、僕はかかっても治るだろうと、何の根拠もなく楽観視している。
 そういえばティッシュが無くなるというデマが広がって、それを真に受けた人達が100円ショップやドラッグストア、スーパーのティッシュをたくさん買い、本当にティッシュがなくなっているけど、なんというのだろう、その光景はとても奇妙な感じだった。嘘が本当になった感じだった。人間を絶滅させるのは不安という気持ちかもしれない。

 帰宅して、いつものように読書をしながらお風呂に入った。今日読んでいたのは文學界の3月号だった。やはり文章が固いことが多いので、ゆっくりとしか進まないけれど、つるはしで岩盤を削っていくみたいに読み続けるのももちろん面白い読書の形だ。1時間ほど熱湯読書をしていたら吐き気がしてきて、立ち上がった瞬間、信じられないくらい心臓が痛くなって、ああ死ぬんだと思って笑ってしまった。浴室に座り込んで冷たいSHOWERをがんがん浴びて体を冷やしていると、この間見た怖い映画を思い出してしまって、だんだんおそろしくなってきたので急いでお風呂を出た。怖い映画は見ているときよりも、見終わって思い出した時のほうがこわい。

 リビングで泥パックを顔に塗った。しばらく待つとパックが固まってきて肌がつっぱる。泥の表面はやわらかいゴムみたいになる。鏡の前で固まったパックを剥がそうとするんだけど、これが途中で千切れたり、うまくめくれなかったりして、果てしなく見苦しいことになった。録画して友人に送ろうかと思ったくらい見苦しい。剥がし終えたあとも、千切れたものが顔中に点在しており、つめでひっかいても取れないので、このまま明日まで放置してやろうかとも思ったけれど、おとなしく水で洗い流した。肌がワントーン明るくなる! との噂だったけれど、効果はよくわからなかった。なんとなくつるつるになったような気がしないでもない程度だった。続けていればそのうちワントーン明るくなるのだろうか。そもそもワントーン明るくなるという状態が、どういう状態なのかよくわからないけれど、ワントーン暗くなるよりよいだろうと思い、続けることとする。

 部屋着に着替えてベッドに横になりながらプライムビデオでナビゲーターという映画を見た。監督はランドル・クレイザー。1986年公開だから、34年も前のだった。映像自体からたしかに古さを感じるけれど、タクシードライバーほど古いような感じもしない。けれど作風がSFだからか、科学技術の作り込みのあっさりした部分(NASAの研究所とか、お手伝いロボットとか)に古さを感じてこれがよい。そうして考えるとタクシードライバーはなんとなく僕は90年代っぽい空気の感じがしている。逆にバッファロー66なんかは映像がじゃみじゃみしていれば本物のアメリカン・ニューシネマみたいに見えるんだろうなあと思う。
 そういえばこのあいだ1939年公開のオズの魔法使いを見ていて、カラー映画だったことにすごく驚いた。調べてみると当時も珍しかったみたいで、カラーになる瞬間のうれしさがすごい。演出としても面白かった。監督もたぶん、カラーになる瞬間がすごくうれしかったのではないかと思う。ほら色がつくんだよ! って、不思議な世界に素敵な色をぎっちり用意してくれて。
 ドロシーとかかしが会話するシーンがある。かかしは英語でスケアクロウというんだけれど、Scareは怖がらせる、おびえさせるという意味で、Crowはカラスを意味している。それをそのまま組み合わせてスケアクロウ、カラスを怖がらせる者、かかし、ということなんだと映画を見ていてはじめて気がついた。とてもゆかいだ。
「ぼくのことScareじゃない?」みたいなセリフをかかしが言った時のなんとも言えないあたたかな気持ちよ。勇気の無いライオンもかわいい。Lion Heartは勇敢な心という意味だものな。ドロシーの願いは家に帰ることだけど、ただ帰るだけでは意味がなくて、彼女の犬を守らなくてはならない。普通の生活は普通に最高だった。

 映画を見ながら横になっていたのがそもそもの間違いだったのだけれど、気がつけば僕は眠っていた。深夜になっていて、パソコンは真っ暗だった。
 なんとなくスマートフォンをみるとメッセージが2件来ていて、1件は母からで、マスクを大量に送りましたとのこと。故郷では余っているのだろう。お礼を返したらサングラスをかけた黄色い丸顔の絵文字が送られてきた。まったく意味がわからなかったけれど、意味などは特に必要無いときもある。
 もう一件は知り合いからで、音楽を制作してほしいとのことだった。僕は音楽などは作れないので断ろうと思ったけれど、熱心にお願いされたのでGarageBandというアプリをダウンロードして使い方を学んでいるうちに面白くなってきてぴこぴこさせているうちにしょうもない音楽が出来たので知人に送ると「すごい良い! でももっとちゃんとしたのが欲しい」と言われ、困惑する。どういうのを求めているのか聞いてみると、ポプテピピックOPみたいな曲がいいのだという。とてもむずかしいことなので、まずよいパソコンとよい音楽制作ソフトが必要だし、その他にもよい楽器とよい音源ソフトと広いスタジオとボーカルとが必要だし、なにより時間と才能とがなければいけないし、その上でどんなに頑張ってもいい曲なんて一曲もできないかもしれないので、プロに頼んだほうがいいと言ったのだけれど、全く話が通じず、「ししみならできる!」と言うので、そうか、僕ならできるんだと思った。意味のないこと、無駄な抵抗、悪あがき、そういうのが好きだった。