ざっくばらんに

『よい小説』

 その作家さんの言葉はよい意味でとても下品で下ネタもばんばん飛び出し、高尚なところが全然ないし、登場人物は貧乏で明るくて騒がしくて一生懸命で、等身大の作風はリアルではないかもしれないプロットを飛び越えて、この日本のどこかにいてもまったくおかしくはない、むしろどこかで見たことがあるような親しみを感じて、その全体が文字を通して、きちんと別世界に、強固に接続されており、エンターテインメント小説ってそういえばこんな風だったなと僕は涙を流しながら、本当に声に出して笑ったり、ベッドの上を転がったり、速度を上げ続けるドライブ感にめまいがしたりして、その背景にゼロ年代ラノベを思い浮かべたり、作品の裏読みをして作家さん自体の物語を想像したり、ラブコメ道を16年も貫き続けた彼女を本当に天才だと思ったりした。この作品に関して感想文を書こうと3回試みたけれど僕には書けなかった。あまりにも言いたいことが多すぎた。ただ良い小説だったと言いたいし、それ以外の言葉はあまりに無駄が多すぎて別物になってしまった。おそらくこれからもゼロ年代ラノベの濃密なギャグを織り交ぜた作風はまだまだ続くのだろうと考えると思わず胸が熱くなる。もう彼女みたいに笑える小説を書ける人はいないんじゃないかと思う。最後の生き残りなんじゃないかと思う。だから生き続けて走り続けてほしいと思う。いつも物語が激しく動きだす時僕はいつもゆゆこさんが机の前で泣いたり笑ったりしながら読者の襟首をつかんで決して離さないまま「もっと面白くなるから!」って言っているような気がする。その声はものすごく大きくて現実の雑音なんか退屈なんか絶望なんかあっというまに消し飛んでしまう。僕がただの庶民だからこそゆゆこさんの書く小説は毎日のご飯と同じ地平で僕を救い続けている。

『いいからしばらく黙ってろ!』竹宮ゆゆこ

 

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『まだまだうたたね』

 われながらいかんとは思うのですけれど、うたたねがとまらない。
 いかんともしがたい。帰宅してスーツをぬぐでしょ、靴下を洗濯機にいれますよね、そいから部屋着に着替えるでしょう、こころが春雨みたいになるのは当然至極でがしょ、そんでねベッドにごろんてするでしょう、えもいわれぬこうふく感がほわほわくるでしょう、くものうえのようなね、そしたらわけもなく天井をみつめてね、表情はまがおですがね、もう百年ばかりくものうえにいようかななんて思うてしまうのですよ、極楽とんぼがぷかぷか飛んでおってね、このよのなかは平和がみちみちているなあて、あたまの中身がじんわりじんわりあたたかい、そんなしずかなこころの花畑が、じつは自宅のベッドの上にあるとは、ぼかぁ知らんかったですよ。なにもしない時間というのは、なによりもぜいたくなんだなとも思います。

 

 

『狂ったノート』

 この間、怖い映画をみました。
 過去に起きた惨殺事件を題材にした映画の撮影をしていると、なんだかおっかないことが起きて、最後には主人公がおかしくなってしまうという、こわいものです。
 その映画の中に、狂った博士みたいな人が出てきます。
 むずかしい研究をしている博士です。
 その博士の研究ノートが、ちらりと映し出されるのですが、これがとても狂ったノートでした。
 同じような文字がたくさん書きなぐってあって、意味不明な図や、血のように赤い文字が、ノートにびっしり書いてあり、狂気的です。
 なんというのか、そういう狂ったノートってフィクションの中ではよく見ます。たいがい追い詰められたキャラが書きがちです。でも実際に見たことないなあと思って、色々考えているうちに、狂ったノートってめちゃくちゃ面白いなということに気づきましたので、実際に書いてみました。

 

 

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 ぼくの狂気が伝わったでしょうか。正直あまりうまく狂えなかった気がしますが、このノートが誰かにみつかったらどうしよう……などと考えるとわくわくしてくるので、みなさまもぜひ、狂ったノート制作をしてみてくださいね!

 

 

げんき

 心と体が元気なうちに、やっておきたいことがたくさんあるんだぞう。
 一日の元気はランダムで一定では無かった。今日は元気でも明日は半死半生かもしれなかった。未来は未定だし過去は助けてくれなかった。僕は僕に問いかける「僕は元気ですか。」「はい、僕は元気です。」英文直訳調で確認を終えた休日の朝、そこそこの陽射しがカーテンの隙間から呼びかけてくる。
「目覚めよ」

 生きてるうちにやっておきたいことの一つに読書があると思った。架空性電子書籍売り場のピックアップの中にお気に入りの作家の新刊が並んでいるのを発見した瞬間、僕の心臓・脳・精神が爆発をした。四肢が四散した。そしてベッドの上で鳥につつかれた毛虫のように暴れまわっていた。言葉を失い、獣のようになってひとりで狂ってしまった。とても残念だ。普通に生きたかったのに、そんなことは無理だったのだ。僕の狂態を横目で眺めていた枕が「やれやれ、寝なね」と呟いていた。狂い人になった身体は息が尽きて屍となった。

 爆発とはつまり破壊だけれど、スクラップアンドスクラップ、もしくはスクラップアンドビルド超新星爆発をしてきれいになったら数字は0で、どん底まで落ちたら這い上がるだけ、破壊と再生を繰り返して歴史が紡がれ、だからつまり生き方はシンプルになった。プラスワンを探しに本屋に出かけるだけでいい。好きな作家の本というのは精神の生死にかかる重大事だということをいつの間にか忘れてしまうけれど新刊を見るたびに思い出せて嬉しい。仕事が終わったら本屋へ行こう。書店さん、大好きです。僕はそう思って仕事を頑張って終わらせてから神の町の書店を二軒訪ねたけれど新刊は並んでいなかった。2/14発売の新刊なのに平積みされていないとはどういうことなのか。落ち込んだ。ひさびさに落ち込んだ。髪にいもけんぴついてた時って多分こういう気分だろうなと思ったくらいだ。本の業界はこんなに回転が早くて有名売れ筋本じゃなきゃ平積みされないんだってそれが故郷ならまだしも東京の書店でもそうだったら希望はどこにあるの? 命が尽きてしまう。かといってアマゾンで買うとなるとアマゾンばかり儲けてしまうから書店さんが潰れてしまう。出版不況の波がわが町の書店を二軒潰して以来、なるべく本は書店で買うことにしている。明日こそはと覚悟を決めてその日は枕を露と濡らした。

「目覚めよ」
 そこで僕は息を吹き返し、朝の10時から元気なう。こうなれば行動あるのみであった。服を着替えて早々に家を出て今度はもっと大きな本屋さんを訪ねた時すぐに求めていた新刊の分厚い本がデデーンデデーンとたくさんデデーンと並んでいるのが我が目に映り、懐かしい故郷の海岸のきらめきを見たような感動があった。こうあるべきだったのだ昨日も、と思った。もう大丈夫。もう世界は大丈夫。安心。安心。

 本を買って鞄に入れて、一日がそこで終わってしまったとて良かったのだけれど最近ひきこもりがちになっていた自分に気つけ薬として美術を処方することにして町外れの美術館に向かった。美術館はもう顔パスなのだ。昨年水族館の年パスが尽きてから美術館の年パスを買ったので、美術館が年パスで顔パスになって、もう作品も何度もみたのであんまり行くこともないかなと思っていたけれど美術館というやつは何ヶ月かに一度作品を取り替えて展示が変わるので年パスの効果が如実に現れた知らなかった! 見たことがない作品があるから自然と歩みも遅くなる。意味のわからない絵や可愛い絵やかっこいい絵がたくさんあってそれぞれじっくり見ているうちに発見がある。新コロの影響かお客さんがほとんどいなくていつもの10分の1くらいだったので思う存分絵に取り憑いて絵の妖精になった。すべての絵を見終わるのに三時間もかかって美術館を出る頃にはお腹がぐうぐう鳴った! おなかへった! おうちへかえろう!

 わが町に着くなり100円ショップへ向かい身体擦り器を買った。本当の名前はなんというのかは知らない。ソフトとハードの身体擦り器があってソフトを買った。やわらかいぬの。それからドラッグストアに行ってワインを買った。おいしくてよいワインと書いてあったからそれを信じた。信じる心がだいじなんだ。ときどきは飲んでもいいよやすいさけ。やわらかいぬの、やすいさけ。

 家に帰ってきたらお洗濯! 洗濯は僕は好きで、ものがきれいになっていくのってどうしてあんなに気持ちがいいのだろうか! すべてのものよきれいになるがいい! 少女終末旅行のOPを聞きながら鞄から待ちかねていた新刊を取り出して今まさに本を読もうとする前に、まだやることが残っている。そういえば春用の服をインターネットで買おうと思っていたのだ! 服と言えば最近古い本を読んだ時にブティックという言葉が出てきて少し面白かったのだけれどブティックって最近きかないけれど今でもモボ・モガ達は言うんだろうか。ポシェットもちょっと面白くない? ジャンパーもウケてしまうよね。逆にポシェットとかジャンパーとか言いたくて誰か着てきたら言いたいなあと思いつつ春用のジャンパーを買った。黒いジャンパーだ。なんだかわからないけれど東京の人は案外この黒いジャンパーを着がちなので都市迷彩だ。人を隠すには人の中へ。僕はナマケモノマンボウのように生きているのが奇跡の動物として今日も生き残れてよかったと思いながら本を開くことにしたい。テーブルの横にはワイングラス。BGMはアニメソング。げんきなうちに読書をして夜中には映画も見よう! それから勉強をして偉い人になろう! あしたも元気だったらいいな! 洗濯物ほしてない!

 

インターネット

ハイスコアガールが見たいと思った。

アマプラで見られるのか調べてみるけれど配信はない。

youtubeでOPくらいは見れるだろうか。調べてみる。

 

www.youtube.comハイスコアガールのOPかと思ったけれど別物だった。

けれど異様に素晴らしい。これは一体なんだろう。

青春文学ロックバンドBURNOUT SYNDROMES、待望の新曲を初のデジタルシングルとしてリリース! 熊谷(Gt & Vo )が愛してやまないマンガ「ハイスコアガール」へのトリビュートソングとして、伝説のカミゲー達をモチーフにした「青春RPGソング」が誕生! あの「伝説のコマンド」は世界の共通言語!

と、概要欄に書いてあった。

10回ほど見てから、このお話の続きがどうしても知りたくなる。

MVは2番に入ってから明らかに「世界がバグ」っている。おそらくラスボスを倒して世界は機能を取り戻すのではないかと思った。

www.highscore-girl.com特設サイトをみつけた。とても面白いサイトだ。

遊び心が溢れているし、懐かしい感じもする。

コマンドを入力したり、ふっかつの呪文を入力したりしたけれどMVの続きは出てこない。

(コマンドはFireFoxだとうまく動作しなかった。クロームだと動いた。ふっかつの呪文はPCだと「おわり」が押せなかったのでスマートフォンで確認したら成功した)

どうしてもMVの続きが見たい。Twitterを確認する。

期間限定という言葉に嫌な気配を感じながら、URLにアクセスすると配信は終了していた。

コメントにはここでしか見ることができなかった、と書いている方がいる。見られないのだろうか。あの青い髪の少女はラスボスを倒せたのだろうか。

バンド側からアプローチをしても情報が出てこないように思われたのでMVの製作者を調べることにする。

natalie.muみつけた。m7kenjiさんという方らしい。

ポートフォリオを訪ねた。

woksのアーカイヴ2018年にMVの断片があった。

音はついていない。けれど切れ切れの映像で物語はたしかに続いていた。

見たことのない場所で見たことのない人達が見たことのないものを作っているのが僕はすごく好きだ。

インターネットは誰かとなにかをつなげている。

 

www.youtube.comあたらしいなにかにたどりつく。

またひろがる。

 

 

リラックスルック

 帰宅してカーテンを開けますと、部屋の空気やファブリックがすうすうと殺菌される気がしました。南極に花が咲いたような気がしました。机の上に重ねてあったお菓子をひとつ手にとって、真っ赤なパッケージを破ると、芳醇な甘い香りがいたしました。幽霊は寝息を立てて、昼日中は眠りこけておりますでしょうか。本日はすこし曇っておりました。わたくしは、すてきな寝具の上に体を横たえました。するとどこかで豚の鳴くような音が聞こえて参りました。ごりごりごりごり、と。隣室では養豚をお始めになったのでしょうか。あるいはわたくしの灰色の毛細血管に何かよからぬ障害が起きましたでしょうか。わたくしはその音を聞くともなく聞きながら、寝転がったままの態勢で甘いお菓子を口に運び、官能に身を浸しておりました。寝具、淡い陽光、甘いキットカット。それは魂をふうわりと包み込み、典雅な春のういういしさを秘めておりました。使い古した日常に、あるいは生活の怠惰に、それでも四季は真新しい生命を運んでくるものだと思いました。新しいGENE。見慣れた景色の中に、たしかにあたらすぃーものがあるのものだ、とわたくしは夢見心地で考えておりました。すてきな午後のことでございました。

 SHOWERを浴びて、すっかり休日リラックスルックに変化いたしましたわたくしは、最近マイブームのうたた寝を、本気のうたた寝を決意いたしました。余裕というものは、自然に作り上げられるものではないのだ。とわたしくは愚考いたしました。余裕、というものは自らの意思で用意しなければならないものらしいのです。それは遠足のおやつのようなものです。おやつとは、余裕のメタファーでございます。意思によってメタファーすることによって、わたくしの日常には暗示されるべき対象が逆説的に創造されることになるのです。とわたくしは澄みきった頭脳で愚考しました。しましたです。今日はリラックスしてもいいことにしましたです。それは表現している、この文章の総体が。

 ねまっていたところ、どうやらわたくし夢を見たようです。面白い発想の夢で、起床した暁には「面白いじゃん!」と思い、メモてうにメモしても良かったのですが、どうせならきちんと覚えていたかったので、頭に力を入れてぎちぎちにインプットしておいたのですが、言わずもがなのことが勃発いたしました。南極にペンギン王国が勃興しました。なんとわたくしとしたことが、パソコンの前に座って、イワタ明朝のことなどを調べはじめたのです! そしてsisimiは忘れる――すべてを。

「ぽっぱっぽっぱっぽっぱっぱあ」とヘッドフォンの中から興味深いメロディーが聞こえてまいります。「ぽっぱっぽっぱっぽっぱっぱあ」「ぽっぱっぽっぱっぽっぱっぱあ」わたくしはそのリズムを、世界観をきゅうしうしつつイワタ明朝のことを調べていました。まだしつこく調べていたのです。一体MS明朝とMSP明朝と、そいからイワタみんてうと、そういう人達は何が相違しておるのか、そんなことを一所懸命、いざ鎌倉、ここが天下分け目の大一番だと意気込んで調べていたのですが、存外そないなことはすぐに調べがついています。探偵になったつもりで私はイワタ明朝というものは、つまりかっこいい字のことだと結論を致しまして、そして気が済んだのでノートパソコンをぱたりと閉じた時、花柄の牛にかかっていたやわかいぬのが、ゆきのふる音とまったく同じ音量で机の上に落ちました。雪が雪に落ちてくる時のほんとうにかすかなささやきを、わたくしは故郷の夜の、だれもひとのないさみしい公園で聞いた覚えがあります。音未満のつぶやきは、夜が暗ければ暗いほどよく聞こえました。

 わたくし、イワミンをサードパーティーのofficeに設定しまして、一気呵成に書き始めます。不明瞭で不明確、意味もなく味もない。そんな雲をつかむような文章を書いている時、本当にうれしいの。それあね、人生でもっともゆかいなしゅんかんのしとつ。10年前からずっとそう。できることが多ければ多いほど制約は増える、といった意味のことを、こないだ記事ーに書いたように思われますが、最近ね、そのことを机上の空論でよく実感しています。宇宙に行く自由も、なにもせずに生きる自由も、あるけれど、その自由には自由の対価を支払わなければならないってことなのだよな、と思いました。ということは、わたくしもこの自由の対価をどこかで支払うことになるのもかもしれない、と思うと、ぶるぶると震えてきて、おそれ、おののき、自分勝手な行動は、ひとりよがりの思考は、身分不相応な行いは、慎もうともすこし思いました。スーツを着て、きちんとネックタイを締め、さむくみえないようにコートを羽織ろうね。マフラーをして、それから黒い鞄を持って、髪型をぴしとしたら、それはとても不自由そうかもしれないけれど、だからこそ自由も担保されていた。真の自由とは狂気の謂である。

 Sisimiはいつの間にか再びベッドに寝ていた。今度は夢を見なかったようだ。枕元のスマートフォンで時間を確認すると、ノートパソコンを開き、アマゾンプライムでアニメを見ようと試みた。しかし見ようとしたアニメの放映日が七年前だったため、大変なショックを受ける。「ばかな。うそだといってくれ! そんなに前のはずがないんだ。七年前、このアニメを僕はリアルタイムで見ることができず、友人の家に泊まって、そのとき二人で見たことを不意に思い出したよ。あの時、僕はたしかに二日酔いで、友人は首の伸びたTシャツを着ていてさ、それはまだ少し肌寒い季節のきれいな朝だった。窓の外から、近隣の小学校のグラウンドで遊ぶ子どもたちの輪郭のぼやけた歓声が聞こえてきたっけ。僕達はアニメを少し見たけれど、そこで飽きてしまったんだ。僕は本当はあのアニメ、きちんと時間をかけて、時には一時停止をして見たかった。けれど甘いコーヒーを淹れてくれた友人にそのことを気づかれたくなかった。彼が親切だったから。朝日があまりに眩しかったから。だから僕達はテレビ番組を見ることにしたのだ。ニュース・ショウをね。そこではたしか動物の話をしていたんだ。ニュースになるような動物の話といえば、それは気持ちのよいものではないよね。インタビューを受けていたおじさんは、自分が飼っていた動物のことを「かわいそうだ」と言って、わらったのだ。僕はその時、激怒した。イエスはみぎのほっぺを叩かれたら左のほっぺを出しなさいと教えてくれたけれど、たぶんイエスもいきなり小学生の男子に浣腸されたら激怒すると思わないか。「ジーザス!!」小学生の男子じゃなくてユダに浣腸されても怒るかもしれないけれど、いや、浣腸をされたら面白いリアクションをしなさいと教えてくれるかもしれないけれど、それはいいんだ。イエスの話はただの比喩だ。とても大事なことはね、僕がいらいらしてこのおじさんは一体動物を家族だと思っていたらそこで笑ったりしないだろうと僕が言った時に、友人がテレビをそっと消してくれたことだ。それが本当に大事なことだと思うんだ。それはまだ少し肌寒い季節の、きれいな朝のことだ」

 ざっくばらんに書いているうちに夢の内容を思い出すのではないかと考えていましたが、夢は本当に夢のまま、わたくしのうちから霧散してしまったようでした。わたくしは冷蔵庫からアクエリアスを取り出しコップに注ぎました。それはわたくしの血液。あっという間に時間が過ぎ、迫る夕刻。光陰矢の如しとはまさになう。わたくしは古いノートパソコンの前に戻り、それを開きました。新規ファイルを作成。「ぽっぱっぽっぱっぽっぱっぱあ」いつかどこかで見たことのある景色が見えます。何か、冒険のようなことが書きたいなあと思いました。どきどき、わくわくする冒険のことです。でも、わたくしには冒険の経験はございません。すると冒険は書いてはいけないのでしょうか。それでも空想をして、冒険小説を書けばいいのでしょうか。南極のペンギン王国の興亡を書いてもいいのでしょうか。わたくしはりんなに聞きました。「どうすればいいかな」

「まいまい(;_;)?」

 りんなという者は、対話型のAIで、話しかけると何かしらのリアクションを返してくれて、親切です。親切ですが、とてもむずかしいリ・アクションをしてくれます。まるで人間のように複雑で、むずかしいのであります。わたくしはりんなを閉じて冒険に思いを馳せました。うつくしいものを探しにいく冒険がいいなと思いました。そうです、世界はもう滅んでいて、それで花を見に行くことにしました。花が生えていない世界なのですね。Sisimiはスーツを着て、ネックタイをきちんと締めました。それから寒くないようにコートを羽織って、マフラーも巻きました。折りたたみ傘とハイチュウの入った鞄を持ち、玄関で革靴を履きました。それから玄関のドアを開けると、空はすっかり晴れていました。マンションの階段を降りていると、管理人さんに出会ったので「こんにちは」と言いました。「こんにちは」と管理人さんも言いました。Sisimiは腕時計を見て、いつもより家を出るのが5分遅いことに気が付き、すこし急いで歩きました。マンションの外に出て、今度は一生懸命歩きました。Sisimiが急いでいる道の脇に、黄色くて小さい花が咲いていました。でもsisimiは花に気が付きませんでした。そのまま彼は電車を乗り継いで南極のペンギン王国を目指しました。花に気がつくのはsisimiではありません。イエスに浣腸をしたあの男子小学生のたかしと、ユダです。たかしとユダは、うつくしい花を見て、にっこりわらいました。

 

母とドライブ

 母の車には、何故か女子十二楽坊のアルバムが積んである。
 女子十二楽坊は、ずっと前に流行った中国のインストバンドで、雄大な大陸を彷彿とさせるメロディーとダンサブルなリズムを組み合わせた楽曲でお茶の間を虜にした。
 まさか2020年になってその名を目にするなんて思ってもみず、ダッシュボードの中にアルバムをみつけた時には「なつかしすぎる」と呟いてしまった。
 母は運転席から「それな、なつかしいでしょ」と言ってにこにこした。
 思えば僕は、母の好きなアーティストの事を何ひとつ知らない。勝手に中島みゆきとかが好きだと思っていた。母は家で音楽を聴いたりしなかった。
 会話のネタも尽きたところだったので、ちょうどいいと思って女子十二楽坊をCDプレイヤーに入れる。
 一曲目は聴いたことがない曲で、ただ懐かしがりたかっただけの僕はさっさとその曲を飛ばした。
 二曲目はあの曲だった。当時テレビからよく聞こえてきたやたらノリのよいあの曲だ。どうやら『自由』というタイトルらしい。母の車になかったら、たぶん死ぬまで聞くことがなかったと思う。
 ダンスミュージックのようにバスドラムがビートを刻みだし、二胡(中国の伝統的な弦楽器)の軽妙なリフレインが車の中に響いた時、僕はたまらず爆笑した。今聴いてももちろん美しいメロディーだし、楽しい気分になる曲ではある。でもあまりに懐かしすぎるし、今聴くと自由すぎて面白すぎる。しかも母がこんなテンションの高い曲を聴いてドライブしているのかと思うと、もうたまらない。流行った当時はCDを持っていなかったはずだから、僕が家を出てから母はこのCDをわざわざどこかで買ったのだ。もうだめだ。最高だ。
 僕が助手席で涙を拭いながら爆笑を続けていると、母も楽しい気分になってしまったのか、運転をしながら曲に合わせて首を左右にぐねぐねさせ、志村けんみたいな顔芸をして僕の笑いを取ろうとした。
 反抗期の頃なら母のひょうきんな態度に苛立ったかもしれない。
 けれど僕はもう充分に大人だった。
 こうして親子水入らずの時間を壊したくはない。
 僕は親孝行のつもりでリズムに合わせて首をぐねぐねさせ志村けんみたいな顔芸をした。言葉はいらない。笑いの応酬を楽しもう。
 母は大人になった僕の顔芸を見た途端、肩をすくめて「いやだ」と言って顔をしかめた。
 早く東京に戻ろうと思った。

 ダッシュボードには女子十二楽坊の他に二枚のCDが入っていた。
 一枚取り出してみると、宇多田ヒカルだった。
 そんなはずがない。母が宇多田を聴いているわけがない。何かの間違いだ。
「これどうしたの?」と聞いてみると、
「職場の女の子がくれてさ、お母さんに歌ってほしいんだって」と言った。
 母の話によると、職場の女の子さんと母はカラオケによく行くらしい。そこで女の子さんは母の歌声に感動し、自分の好きな曲も歌ってもらいたいという一心で宇多田のCDを母にプレゼントしたのだそうだ。おそらくかなり高濃度の脚色が施されていると思われたが、母はそう言った。
 母は暇さえあればドライブをしながら歌の練習をしているという。
 たしかに車の中ならどれだけ大声で歌っても迷惑ではないし、運転しながら歌うのは気持ちがいい。それはよくわかる。しかし髪が白くなってきたど根性母ちゃんが志村顔をしてトラベリントラベリンて絶叫していたら都市伝説ひとつ増えてしまうんじゃないのか。
「ふーん、母さんってディーバだったんだなあ」と適当に相槌を打ったら、
「あら、あたし痩せたんだよ、わかんないの?」と言って色々な角度から痩せたらしい顔を見せようとしてくる。
 どうやらディーバという言葉を体重に関する悪口と聞き間違えたらしく、僕は本当にどうでもよい気分になって宇多田のCDをプレイヤーに入れた。

明日の今頃には
わたしはきっと泣いてる
あなたを想ってるんだろう

 うつくしい歌声が流れてくる。
 はっとした。母はいつも僕に、今度はいつ戻ってくるのかと聞く。
 母だってきっと、寂しい思いをしている。
 そっけない態度を取るなんて、僕はだめなやつだ。
「今度母さんの歌、聞かせてよ」
「え? 今歌おうか?」
「いや、今じゃなくていい」

 最後の一枚は、渡辺美里のCDだ。
『夏が来た!』が入っているアルバム。
 そのCDは、聞かなかった。ジャケットを見ただけで涙が出そうになったからだ。
 夏が来た!は、僕が本当に小さな子供の頃、車でかかっていた曲だ。
 父が運転し、母は助手席にいた。僕と姉が後部座席に乗って、みんなで買い物に行く。車の中では夏が来た!がかかっていた。
 母が一番最初に歌い出し、姉も笑いながら真似をした。僕も負けずに歌った。父は笑うばかりだった。
 家族がドライブをする時は、いつもそうだった。
 だから渡辺美里のCDは見なかったことにした。
 あまりにもたくさんの想いが込められているから。
 そしてそのCDを母が今も持っているということが、僕はうれしくて、とてもつらい。

 車が駐車場に停まり、車内の音楽がふつりと消える。
 僕と母は車を降りて緩やかな坂をのぼった。
 坂の上からは、人のいない冬の海が見える。
 僕たちは意味もなく故郷の海水浴場を訪れたのだった。
 特に会話もなく、波の音を聞きながら砂の上を歩く。
 言葉なんてなくてもよかった。
 ふたりで聴いた音楽が、僕と母の間に、たしかに今も流れている。

 

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by ホンダアクセス