腕時計が壊れていない

 いつも腕時計を置く場所がある。
 ノートパソコンの横。デスクトップパソコンと、本の山の間の狭い隙間。
 その隙間に腕時計を置くことにしようと決めたわけではないのに、帰宅して着替えをする流れで外した時計を、いつもその場所に置いておく。意味も害もないけれど習慣になっていた。

 腕時計置き場には常時二つの時計が置いてある。
 最近ずっとつけている銀色の腕時計と、銀色の腕時計を買う前にずっとつけていた黒い腕時計だ。
 仕事に行くときも遊びに行くときも、銀色の腕時計と一緒だったから、黒い腕時計のことはほとんど忘れてしまっていた。黒い腕時計は、黒革のバンドがついていて、文字盤が白くて、ややフォーマルな印象だから、よい子にしていなければならない時につけることにしていた。
 黒い革のバンドを腕に巻いて、ふと文字盤を見ると、針が止まっていた。
 黒い腕時計は自動巻きの時計(腕を振ると勝手にぜんまいが巻かれて針が動くようになる仕組み)だから、きっとぜんまいが伸びてしまったのだと思った。
 時計を手に持って数回振ると、秒針がてんてんと動き始めた。
 再び腕に巻いて町に出かけた。

 コンビニで腕時計を見ると、また針が止まっている。
 時計を振ると秒針が動き始めた。けれどよく見ると、秒針はつまづいたりスキップしたりして、いつも生真面目な時計にしては妙な動きだった。
 おかしなことになったなあと思った。

 用事を終えて帰宅すると、また時計の針は止まっていた。
 手に持って振ると、秒針は2秒分動いた。しかし、何度振ってもそれ以上は動かなかった。
 腕時計が壊れたんだ、と思った。
 僕はたぶん、人生ではじめて腕時計を壊した、と思った。
 電池が切れて使わなくなった時計なら、今までにも何個かあったと思う。風防ガラスがひどく傷ついて使わなくなったとか、バンドがぼろぼろになったので捨ててしまったとか、そういうことならあったと思う。
 けれどこの黒い腕時計に関しては、そもそも電池が無いのだし(振っていれば針は動くはずだし)、風防ガラスは綺麗だし、革バンドもまた使える状態で、それでもだめになってしまった、ということに衝撃を受けた。なぜだかわからないけれど、あと5年くらいは壊そうと思っても壊れないほど頑丈なんだろうなあと思いこんでいた。
 修理に出すほど高価だったわけでもなく、捨てようと決断できるほど使い込んであるわけでもない。
 手に持って振ると、きっかり二秒分だけ針が進む。
 今まで、いらなくなった腕時計をどうしてきたのだろうか、まったく思い出せない。燃えないゴミに捨てたのだろうか。印象としては、使わなくなった腕時計は勝手にどこかに消えてしまったように思われる。実家の本棚の裏や、ベッドの下の隅っこに、今まで持っていた腕時計が全部集っているような気がしてくる。
 手に持って振ると、きっかり二秒分だけ針が進む。
 そもそもこの黒い腕時計はごみなのだろうか。
 なんなのだ。この腕時計は一体何者なのだ。
 しばらく見つめていると、蝉の抜け殻か、脱皮した蛇の皮を持っているような気分になってきて、だんだん恐ろしくなってきた。蝉の抜け殻も蛇の皮も、おそらく脱いだ者達からすればどうでもよいものなのだろうけれど、僕はそれら自体になんだか魂があるような感じがしている。限りなく塵芥に近いけれどなんだか神聖な感じがして、適当に扱ってはいけない気がしている。この気持ちは一体なんなのだ。
 僕は動かなくなった腕時計を土に埋めたい気がしている。けれどそれは絶対間違っている。
 手に持って振ると、きっかり二秒分だけ針が進む。
 いくら振っても動かなくなったら、その時は燃えないゴミに捨てようと決めて、何度も何度も振ってみた。
 そしたら黒い腕時計の秒針は、生真面目に動き始めた。
 以前のように動き始めた。
 念の為、風防ガラスに耳を当ててみると、小さくこつこつ言っている。
 まったく正常だったので、腕時計置き場に戻した。
 おそらくあと5年は壊れないと思う。

 

漂流

 琥珀を擦ると軽い物を引き寄せる謎の力が発生する。まるで神話のようだったから僕は神話の世界に住んでいる。
 最初に静電気をみつけた人は、おそらく驚きすぎて手に持っていた琥珀を取り落して少し逃げただろう。ちょっと叫んでしまったかもしれない。そのまま家を飛び出して「琥珀を擦ると塵とかがくっつくよ!」と友人に言って回っただろうか。そしてそれを「うそでしょ」と笑われただろうか。そういうなんか不思議な力がこの世にある、とみつけてしまった時、一体何を考えればよいのだろう。紀元前600年頃に生きていたギリシア人のタレスさんという哲学者は、静電気をみつけて、何を考えただろうか。
 僕は想像することしかできないけれど、彼のおかげで下敷きを擦って静電気を溜めて髪の毛を逆立てることができるようになったし、雷は神様だけの力じゃなくなってほんの少し人間が使うことができるようになって、今では無線LANルーターでギガを気にせずスマホYoutubeが見れるようになったって、それが本当には何を言ってるのかよく分かっていないけれど、生活は確かにゆたかになり、人間から動物らしさをどんどん奪っていく。シンギュラリティーのその先に石と棍棒で戦う世界大戦が待っているなら意外と腕立て伏せなんかは最先端の趣味かもしれない。目に見えないけれどたしかにあるものをみつけてくれた人々に感謝をします。タレスさんのおかげで、ヨドバシカメラは今日もクリスマスみたいだ。

 目に見えないものってなんだか難しそうに見えるから、仮想通貨や哲学やWifiの正体が未だによくわからない。よくわからないものに恐怖を抱くのが人間だから、よくわからないままにしておくより勇気を出して飛び込んでみた方が結果的には楽だということがよくあるため、秋葉原に向かうことにして、いつもの炎天下を汗をかきながら歩いている。靖国通りはお昼休みのビジネスパーソンが闊歩して、車道にはカマキリみたいな高級車が列をなしている。道端に座り込んだ汚れた服の男性がピンク色のタオルで首筋と髭面を拭っていた。その背後にはぴかぴかに磨き抜かれた高さ10mのガラスがあって、巨大なモニタには抽象的な形と色が溢れていた。思考の一部を機械にアウトソースする精神的サイバーパンク世界でアナログな出力器官を退化させないためのおかしな習慣を自らに課している人間の矛盾と自家撞着と夢と現実と答えは永久にみつからない問いと終わらない散歩がわりと好きだった。

 JR秋葉原駅昭和通り口から出ると目の前に要塞のような建物が姿を現す。フォート・ヨドバシではあらゆる電化兵器が揃うらしい。最先端の装備、最先端の技術、生活のゆたかさは情報戦の結果であり、物質的に満足し始めた人間たちは空き容量を埋めるためだけに新しい情報を頭に詰め込んで手で触ることができる論理を手に入れることで自らを拡張したつもりになって、電気人間になって体も機械になって、よっぽど涅槃に近づいた。マザー2で体をロボットにした時、とても寂しい気持ちになった。けれど戦うのは体ではなくて心だし、最後に必要なのは攻撃力ても防御力でもなく、まったく不用に思われた祈りだったことが僕がゲームから学んだ真実だった。人間が月に行くことができたのはロケットが開発されたからではなく月に行きたい! って思う意思があったからだった。へいシリ僕が何をしたいか教えて。アレクサ、人間はどうなってしまうの。因果な腹話術の背後に全く普遍的な愛があればよいな。無線LANルーターを買って家に帰って接続し、スマートフォンで最新のゲームをたくさんダウンロードして、見たことのないアイコンがスマートフォンのホーム画面にたくさんあって、全然自分が考えていた景色と違うなあと思ったから1719年の小説を手にとった。とある船乗りが無人島に漂流するお話。

 

新しい本屋さんを現す

 夜、訪れたことがない本屋さんの看板が白く赤く灯っている、矢印は左向きで、ビルの中に吸い込まれている。威圧感のあるビルの、トンマナ合わせた格好と感性を、僕は持ち合わせていない。ポケットの中のスマートフォンは、なんだか埃っぽいし、髪の毛も照ってはいない。もしビルの中に頭突きコミュニケーションが得意なヤギがいれば、あるいは20匹のカエルが喉を膨らませていれば、僕は赦されたような気持ちになっただろうに、東京のビルは人の巣であることが息苦しい、それはなぜかと考えると、やはりいちばん恐ろしい最強の動物だからだった。
 ビルを指している白赤の看板に導かれるままに、本屋さんを尋ねることにする時、通行許可証を持っていないから、すこし緊張している。新しい場所をたずねることは、自分の居場所を広げることだけれども、世界を狭める行いだ。宇宙は果てしなく広いけれど、宇宙のマップに進むためには、人類のレベルが低すぎるから、より狭く深く脳内とかをマッピングしている。
 ビルの中は煌々と明るく、外の道にわらわらと溢れていたサラリーマンサラリーレディサラリードッグサラリーソノモノなどが可愛く見えるほどに烏合烏合していて、あちらこちらでごうごうと風のような笑い声が聞こえてくる。本日は酒宴で、みょうにちも酒宴だろう。ここは酒宴ビル、ここは忘却の塔。許可証はジントニックですキューバリブレです、高く舞えば舞うほどに白くはっきりと眩しく灯る光、高らかに上がる楽しげな声、ひとよかぎりの蜃気楼が屋内に充満して酒気を帯びている。うつむいてすすんでゆきます。
 四方を煉瓦に囲まれたビルの通路、左右の道におしゃれな食べ物屋、タピオカ屋、ハンバアグ店、ラアメン店、階段などが設置されてあるけれども、目的の知的財産店がなかなか姿を現さず、しかたなく壁にひっついていた地図などを見てみると、地下1の右っかわのはしっこの奥の奥のずっと片隅に、ちんまり収まっているの、さすが本屋さんだった。本屋さんは喧騒から遠い。本は静かに読むものだ、本は現実よりよほど騒がしい。
 天井の低い、天井まであるような本棚の密集した、白と黒の本屋さんにたどり着いた時、もう何度も何度も数え切れないくらい感じたわくわくをまた感じている。本の背表紙に呼ばれている。それが好きだったし安心する。本棚の間を回遊し、一冊一冊が巨大なサンゴ礁か島のようだ。背表紙から物語が現われる。知識がいざなう。僕を手にとって読んだほうがいいよ、と彼らはひどく元気だ白く照らされて、こんなにもにぎやかに咲いていて群れをなして、走りもせず這いもせず凛として、何かの予感を含みながら何かを待っていた。僕はヤギだったらよかった。物語を食べるヤギだったらよかったな。使い古して、少し壊れたボールペンのために、替芯を三本買って、もう何も目にしないように目を閉じたら、小さくて狭いマップには新しい色がついて、新しい居場所が表示されるようになる。その分世界は狭くなるけれど、僕が訪ねてみるまで、本屋さんは、ただの真っ黒の壁だった。

 

退屈をしよう

 獣と俳優と宇宙人が、三本の糸のように撚り集まって僕が出来ていた。

 会社から帰って来る時、ひどい疲れを感じている。このところ疲れはピークにあり、重力が倍になって目に見える世界はぐるんぐるん回っていた。正体不明の憎悪、出処のよく分からない怒りが入道雲のように湧き上がり、集中力は点滅し、悲観的な視点から逃れられなくなった。過去、未来、現在の全てが誰かの手によって真っ黒に塗り替えられている。こんな状態は久しぶりだったから、ちょっと休もうと思ってリビングのごろ寝マットレスに寝転がり、本を読もうとするけれど3行読むたびに目や頭が疲れて本を閉じなければならなくなった。ブログは書けなくなった。この症状ははじめてではなかった、どころではなく前から実にたびたびあった。そのたびに僕は自分には才能がないからなあとか、もう書きたい題材もなくなってネタ切れだなあとか、発想がよくないからなあとか、どんどん落ち込んでいった。改善されないというより、癖になっていた。そして今、やっと僕はひとつの解決策をみつけた。獣と俳優と宇宙人が、三本の糸のように撚り集まって僕が出来ていた、ということに気がついた。

 獣は僕の体である。腕や足や目や心臓や、つまり筋肉や、感覚器である。獣はとてもわかりやすい表現をする。腹がへるとお腹が鳴って、眠たくなるとまぶたが落ちてくる。筋肉を使いすぎると筋肉痛が起きる。とてもわかりやすいので、対処することができる。バンテリンを塗ろうとか、お風呂に入ろうとか、早く寝よう、とか思うことができる。

 俳優は僕の千変万化の心である。心はわくわくしたりしくしくしたりする。些細なことで喜んだり、かなしんだりする。心が疲れている時には、必ず何か原因がある。たとえば仕事でミスをしてしまったことがいつまでもひっかかっているとか、階段から転げ落ちてしまって恥ずかしいとか、原因があって、疲れていると分かる。

 宇宙人はなんだろう。体でも心でもない。けれど体でもあり心でもある。宇宙人が疲れている時には、何が疲れているのか全然分からない。宇宙人が疲れていると、気分が暗くなって怒りっぽくなって悲しくなって集中力が無くなる。慧眼な読者諸賢らにおかれましてはもうおわかりのことと思われるけれども脳である。脳。脳が疲れると気分に変調をきたす、ということが分かった。朝から晩までパソコンを見て、携帯を操作して、本を読んで、などとひっきりなしに情報を脳に詰め込んでいると、脳は自分で痛みや疲れを発信することができないから心を操作して疲れてますと訴えかけてくる、のではないかと思う。思ったのでインターネットを駆使して脳・リセットなどで調べてみたら、結局寝ることと、何もしないことが脳に良いことがぼんやりわかったので、帰りの電車の中で本を読むことなどをやめたら、笑ってしまうくらい悲しい気持ちや焦りが少なくなった。やはりよく働くことはよく休むことなのだなと思った。

 体の疲れがあるかどうかを確かめる、なければ心が疲れているかどうかを確かめるために原因を探してみる、それもなければ脳が疲れているのではないかと疑ってみる、という順番で確かめればよいと分かった。急いでいる時、やらなきゃいけないことがあると考えている時、焦っている時、それでも上手くいかないときは、youtubeで30分間雨の音を聞く。僕は普段、退屈だとか暇だとか全然感じないんだけれど、30分間雨の音をぼうっと聞き続ける時、とてつもなく退屈を感じて、空想が独り歩きしはじめて、なんとなくぽかんとした気持ちになった。何かをしながら雨の音を聞くのではなく、雨の音を聞く以外のことをしない、ということをやると気力みたいなものがものすごく回復する。つまらない! という思いの反動が怒りを追い越す。


 頑張らないとな、という時には、肩の力を抜いて、口を半開きにして、10分くらいぼうっとした方が、うまくいく気がしたから、今日から僕は、いつにも増して地藏道を究め、なにもしない、なにもないという境地を目指して、なにもしないことにする。

 

マシュマロのお返事

 マシュマロをいただきました。

 

 

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『ガラスのくつ』に対するコメント、あるいはアンサーだと解釈しています。
 ガラスのくつを書いて良かったなあと思いました。僕が欲しがっていて、諦めたものが、このマシュマロに含まれているような気がしたので。
 美しくて儚いものをタフに使おうとすることは、おかしなことだと僕は考えたわけですが、”丈夫で可愛くてうっとりするくらい綺麗で、履いたら羽のように体が軽くなるスニーカー”は、僕の想定していた美みたいな概念を、軽々と超えて、うれしくて笑いました。
 そんなワルキューレのようなスニーカーは僕も欲しいです。うつくしいだけのガラスのくつを打ち砕いてくれた冒険心と、想像の力が僕の助けになっています。
 美しくて、その上で丈夫なものを僕も探してみようかなあと思いました。
 答えが出た時には、砂浜からお便りください。

 

 

 

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 大変申し訳ないことです!
 文章は熱かったり冷たかったり、尖っていたり丸まっていたり、硬かったり柔らかかったり、色々あると思うので、熱そうだなと思った時には、冷ましてから服用してみてください。
 僕も頑張ってやけどしない程度にあたたかい文章を書く努力をしてみます。

 

 

 

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 それでは皆さん、シーユーネクストまた会いましょう。
 ハクナ・マタタ!